魂の場所
伊織は雨が嫌いだった。大好きな祖父が亡くなったのもかわいがっていた犬が死んだのもみんな雨の日だった。昼だというのに薄暗く、夏だというのにうそ寒く、まるで見知らぬ国に迷い込んでしまったかのような錯覚を雨は押しつけてくる。伊織は強く生きたいと願う。しかし目前に降る雨がそれを許さない。だから嫌いだ。そして伊織はこうも思う――雨はありったけの悲しみを先に降らせ、その後で伊織から大切なものを根こそぎ奪っていくのだと。
「どうかしたの? 伊織」
「……いえ、何でも」
感傷はこれきりだとばかりに鋭く天を睨みつけ、伊織は平静の表情を取り戻す。わずかに切れ長な目、凛々しさを秘めた眉、反面小ぶりな鼻と唇。その容貌にはまだ若干の幼さが残るものの、いずれ美しい女性に成長するであろうことは誰の目にも明らかだった。そしてそれは他ならぬ伊織にとっても否定できないことであり、これが目下最大の悩みのタネだった。
これまたどこから取り出したものか、大きな紫色の和傘を差して雨中をゆく紫に促され、伊織は現在、博麗神社に程近い森の半ばの獣道を歩いている。道があるのかないのかもわからない正真正銘の獣道ではあるものの、幸いにして通行の妨げになるような樹木はほとんどなく、慌てて神社を飛び出す際に拝借した霊夢の傘を壊すようなこともこの分ではなさそうだった。
それにしても森を歩くなどという経験は、幼少の冒険ごっこから離れて久しい伊織にとっては新鮮な感覚を伴うものだった。雨が降っていなければなおのことよかっただろう。さらに言えば伊織を先導するように歩くこの後ろ姿も、少しばかり邪魔に思える。
「あの、紫さん」
「何かしら?」
振り返りもせず紫は答える。もしかしたらいまの返事は、彼女の服のどこかに仕込まれたスピーカーによるものなのではないか――そう思わせるほどの紫の無関心ぶりであった。いかなる声も返ってこないほうが自然なくらいだ。連れてきておいてそれはないだろう、と言いたい。
しかし疑問は不平に先んじるものであった。
「あの、これからどこに?」
思えば幻想郷に来てからこちら質問ばかりだ。無論それも仕方ないと思う自分もいる。いままでその存在すら知られていなかった世界に招かれた伊織は、言わば生まれ落ちたばかりの赤子も同然だ。もし赤子に口を利くだけの能があれば親を質問攻めにするだろう。認めたくはないがこの幻想郷において紫は伊織の親も同然である。単独ではまったくもって無力だった彼女に戦闘力という名の『自分で立って歩くための足』を与えたのはまぎれもない、八雲紫その人なのだから。――しかしこうして赤子としての生活を始めてはや数週間、そろそろおしゃぶりくらいは自分の手でかなぐり捨てたいと思う伊織である。なにせ着物のあしらい方だって覚えたのだから。
「あなたに教えたいことがあると言ったでしょう。そのための場所よ」
「神社の境内じゃ駄目なんですか?」
「スペース的には問題ないのだけれどね。あそこはいろいろとよくないものが溜まっているからいけないわ」
「よくないもの?」
また少しだけ雨の勢いが強くなった。霊夢は平気だろうか、この分だと妖怪を倒す前に風邪を引いてしまうのではなかろうか。さすがにそれは杞憂とわかっていても、それで伊織の胸中に渦巻く不安のすべてが拭い去られるわけではなかった。
「そう、よくないもの」
対して傘の柄をくるくると回す紫の背姿にはある種の余裕さえうかがえる。いったいどうしてそこまで悠然と構えていられるのだろう。あるいはこれこそが人間と妖怪のわずかにして決定的な違いなのだろうか。
「神社が神様の家だということは、あなたにも何となくわかるでしょう?」
「……まあ、一応」
紫は今度こそ立ちどまると、優雅な動作で伊織を振り返り、目で何事かを促した。どうやら隣に立って歩けということらしい。説明の便宜を考えてのことなのだろう。それならそうと早くそうしてほしかった。
少女と妖女は、ともに雨中の森に傘を並べて歩き始める。
「神様の家は隠れ家ではいけないの。むしろ積極的に信者を呼び込むために、誰の目にもそうとわかるようなモノを置かなければ意味がない。たとえば鳥居がそうね。あれはとてもわかりやすいシンボルだわ。――ここまではわかるかしら?」
「はあ」
どうにも胸糞が悪い。わかりやすく説明してくれるのはいいのだが、まるで無知な子供に噛んで含めるようなその言い方は、はなから志野崎伊織という存在がまともに相手にされていないようで、軽薄に扱われているようで嫌だった。立場を考えれば当然なのかもしれないが、つくづくこの妖とは合わないよなあ、と、伊織はそう思わざるをえなかった。
滔々と紫は語る。
「誰の目にもそうとわかるということは、妖怪や神様崩れのエネルギー体にとっても神社は神社として認識されやすいということ。悪戯したくなっちゃうのよ。あなたも小さい頃にしたことあるでしょう? ピンポンダッシュ」
「ぴ、ピンポン!?」
突如として紫の口をついた、口をつくはずのない言葉に思わず伊織はむせ返ってしまう。
「あらどうしたの? 外の世界では子供の悪戯として割とポピュラーだって聞いたわよ。誰しも一度は経験があるはずだって」
「た、確かにその認識は間違ってませんけど、でもなんと言うかその、」
あなたはそういうことを言うガラじゃないでしょう。よっぽどそう言おうとして、動揺のあまり言葉にならなかった。
「あなたの口からその手の言葉を聞くことになるとは思いませんでした」
呼吸を正し、ようやっとそれだけを言った。
「そう? 別に何の不思議もないのではなくて?」
「……まあ」
冷静に考えれば確かにそうなのだろう。常に予想の斜め上を行く大妖怪紫サンである。いまさらピンポンダッシュごときがなんだというのか。
「それで、その悪戯をする妖怪やらなんやらが『よくないもの』ってことですか?」
「正解よ。よくできたわね伊織ちゃん」
「ばっ、馬鹿にしないでくださいよ。それくらい少し考えればわかります!」
慌てて抗議したものの、そのとき紫が浮かべた屈託のない笑みに、とうとう伊織は勝てなかった。
あまりにも不意打ちすぎた。
そんな笑い方は、やはりどうしようもなくズルいのだ。
「ほら見えたわよ。そこ一帯、木が生えていないでしょう?」
ふいに紫が示した細く長い指先を目で追うと、そこには確かに一本の草木もない空間が広がっていた。突如としてふたりの前に口を開けた不可解な森の空白。直径二十メートルに及ぶ円形のそれはこの大自然の直中においていっそ不気味なまでの幾何学的な精緻さを誇っていた。
「こんなところが、あったんですね……」
晴れた日ならばこの空間に注ぐ日光を楽しむこともできるのだろうが、いまをもって木々の合間から降りしきるのは無慈悲な雨の雫ばかりである。望むべくもない想像を詮無いことと打ち消して、伊織はその空間に一歩、踏み入った。
その軽率さに一瞬のためらいを覚えたが、なにか危ないもの――たとえば結界の仕掛け――を踏み抜く可能性があるなら紫がすぐに止めるはずだと思い直し、今度はずかずかと円の中心近くまで歩を進めた。案の定、森の平穏が破られることはなく、辺りには雨音ばかりが引きも切らず充満するのみだった。
「すごいですね。俺にはなにも感じられませんけど、多分、ここだけ木が生えないってことはそれだけ神秘的な力が満ちているんでしょう?」
「私が伐ったのよ、ついこの間」
「なにやってるんですか!」
拍子抜け、どころか腰まで抜ける思いだった。伐採なんて、本当に、まったくもってこの場に似つかわしくない行為だろう。伊織がこの数週間で見立てた限り、幻想郷は今時ありえないほど自然と溶け合っている集落である。いくらド田舎だろうと一本の電線もない一グラムのアスファルトも敷かれていないでは立ちゆかないだろうに、それがこの場所ではなんの苦もなく実現されている。その点を伊織はむしろ評価してさえいたのだ。が、それがどうしたことかここにきて突然の裏切りである。伐採。おそらく紫はなんの躊躇もなしにそれを実行したのだろう。それこそ庭の雑草をむしるような勢いで数十本の大木を文字通り根こそぎにしたに違いない。仮にも紫は幻想郷を統べるような立場なのだろうに、どうして文明の側に立つような真似をするのか。木がかわいそうではないか。無宗教の伊織も、このときばかりは漠然とした神様めいたものに祈りを捧げたくなった。アーメン。
「あら、なにか勘違いしているみたいね伊織。確かに伐ったとは言ったけれど、実際、そんなに手荒い真似をしたわけじゃないのよ?」
「……じゃあなんですか。木を一本一本根っこから掘り起こして、どこか別の場所に植え替えたと?」
「違うわ。これよ」
紫がぱちりと指を鳴らす。伊織にはすでにその音がなにを巻き起こすのか先んじてわかるようになってしまった。悲しい適応である。
紫の背後に空いた黒々しい空間はもはや何度見たかも数え切れないものだった。相変わらずなにがなんだかわからない。それゆえに恐ろしい。
「――俺はそのやり方も十分手荒いと思うなあ」
あんたにはその感覚がないのかなあ、紫さん。
「まあその辺りのことは時間ができたときにおいおい話すわ。それよりもいまはこっち」
紫がもう一度指を鳴らすと、中から古い縦長の紙束が吐き出された。「ぺッ」という声が聞こえたのはぜひとも気のせいだと思いたい。
「はい、これ」
紙の帯でくくられた束が紫から伊織に手渡される。指が触れ合うその一瞬に胸の高鳴りを覚えてしまった自分を、伊織は無性に殺してやりたくなった。
「はあ……で、これをどうするんですか?」
受け取った紙束には一枚ごとに難しい文字がびっしりと書きつけてあった。そのうえ字を崩して書いてあるものだからまったくもって読み取れない。が、それでも一部分だけ伊織にも判読できる箇所がある。その流麗な五文字には見覚えがあった。
「志野崎、伊織――って、これ俺の名前じゃないですか」
「そうよ」
嫌な予感がする。いや、予感などという曖昧な言葉では片づかない。もっと恐ろしくて容赦のない、言うなれば『悪寒』のような、不運の尻尾めいたもの。
伊織はその先を質すのが怖くなって口をつぐんだが、黙っていても紫の口まで閉ざすことはできなかった。
「そのお札にはあなたの髪の毛が仕込まれているわ。一枚につき一本」
いつの間に、と言う気も起こらなかった。もはや少々のことでは伊織は動じなくなっていた。冷静さというのはあきらめを重ねた先にあるのかもしれないと思う今日この頃である。
「あなたに教えたいことがあるって、さっき言ったでしょう。それがこれよ。お札をいろいろなものに変化させて戦うの」
「お札を変化させて戦う? 俺がですか? 霊夢さんじゃなく?」
「もちろん伊織、あなたが戦うのよ。じゃなきゃあなたの髪を使ったりしないわ」
「まあ、それはそうかもしれないですけど」
それとこれとは話が別だ。どちらかと言えば伊織が問い質したいのは『なぜ自分にこの戦法が授けられたか』であって、『自分がここに呼び出されたことに対する妥当性の開示』を要求しているわけではないのだ。
「でも俺には、」
腰の刀がチャキと鳴った。
「これがあるじゃないですか。あの馬鹿でかい鬼を倒したときのことは、無我夢中だったので正直覚えていませんが、でも俺が倒したのは事実なんでしょう? だったらやっぱり、無闇に新しい技を仕込むよりは、実績のある戦い方を選んだ方が賢いと俺は思うんですが」
「いいえ。それはもっとも愚かで性急な戦い方よ、伊織」
自分の意見を真っ向から切り捨てられ、伊織はわずかに鼻白んだ。
「愚か……ですか? それは一体どういう」
「目立ちすぎるのよ、あなたは」
つぶやきながら紫は、そのときばかりは面白くないものを見るような目で伊織を見つめた。
「目立ちすぎる?」
「ええ。本当はどんどん目立ってくれた方が、華々しく戦果を挙げてくれた方が、私としては面白いのだけれど。でもそうはいかないのが世の中ってものでね。……あなたには実感できないだろうけど、幻想郷も立派に世の中なのよ。本質的には外の世界とまったく同じ。社会の仕組みを持ち込むならば、その汚い部分も同様に博麗大結界の内側へ通さなきゃならないの」
「どういうことですか? 俺にはまったく話が見えないんですが」
紫は不意に目をそらし、どこか遠い、伊織の思慮が及ばない場所へと視線を投じた。
「悪い輩はどこにでも湧くってことよ。いままでは、そうあなたが来るまでは、幻想郷最強の存在は博麗霊夢だった。その認識は揺らがなかった。だからこそ守られていた秩序があったのよ。博麗の巫女を三角形の頂点に置くことでその下に築かれる社会を安定させる。この構造は神聖にして不可侵のものだった。ゆえに悪辣な目論見がつけ入る隙なんて少しもなかったの」
「……その構造を壊したのが、つまり俺ってことですか。目立ちすぎるあまり、霊夢さんへの信望が薄れつつあると」
伊織の意識の内側に、本人さえも自覚しえない、わずかな怒りの感情が沸き起こった。
「責任を感じろとは言わないわ。あなたを連れ去ったのはこの私なのだから、むしろあなたこそ私を恨んでしかるべきよね。でもだからと言って、あなたに全面的な行動の自由を許すこともできないのよ。伊織、これからあなたには霊夢のサポート役を引き受けてもらうわ」
「……俺の軟禁も、それが理由なんですね」
不意を打たれたように紫は伊織を見たが、やがてゆるりと視線を外し、
「そういえば、他でもないあなた自身にそのことを話してなかったわね――不誠実だったことについては謝るわ」
「別に構いませんよ。俺はあくまで他所者ですから」
紫はそれに対して何も言わなかった。伊織もまた、これ以上話を続けるつもりはなかった。傘を左右に振って雨滴を払い、ただこれだけを言って自分の意思を示すのみでいいと、そう思った。
「俺は他所者でも、関わりすぎた他所者です。それくらいの自覚はあります。ここまで来たら最後まで関わらなきゃいけないってこともわかります。だからやりますよ。戦場の華になりたいなんて言いません。それが彼女の助けになるなら、サポート役でも買って出ます」
「……ありがとう、とは言わないわ。私にそんなこと言われても、気持ち悪いだけでしょう?」
紫の問いに、伊織はかすかな首肯で応える――、まさにそのときであった。
驟雨の中、ふたりの間に舞い降りたそれは、しかし到底雨と呼べるものではなかった。
「これは……」
「さっきの式からね。本当に危険なことがあったときしか連絡しないようにと、そう命じておいたのだけれど……」
黒い羽根、であった。雨の雫を点々とまとったそれは、根元の部分だけが血のように赤かった。
「紫さん……」
内心の焦りを伊織は隠しもしない。不安を帯びた眼差しで、じっと紫の顔を窺っている。
「どうやらあなたに出てもらうしかないようね。いいわ、訓練はできないけれど、ぶっつけの実戦でも多少は使いこなせるでしょう」
「ぶっつけ……って、この札をですか? そんな、無理ですよ! いきなりできるわけないじゃないですか!」
「じゃああなたは、ここに来るまでに刀を執って戦ったことが一度でもあったのかしら?」
「そ、それは……」
確かに反論は難しい。伊織がこれまでに身を投じた戦いはまぎれもなくあの一回のみだ。しかし彼女は勝利した。もはや伊織の内側に埋め込まれた潜在的な能力を誰も否定することはできない。が、その力が一体どの範囲までをカバーするものなのか、未知数である以上は確かめるその一回一回が大変危険な博打なのだ。もし霊夢を前に自分が無能をさらすハメになったら? 考えるだにぞっとしない問いである。だが伊織に残された選択肢はそう多くない。期せずして示された伸るか反るかの大勝負、打って出ないというのなら即刻退場の冷たい世界である。
伊織は脳裏に霊夢の姿を思い浮かべる。思えばこの幻想郷で初めて出会ったのが彼女だった。一見普通の女の子にしか見えないのに、その実誰よりも郷の実情を見つめている巫女。今の伊織とそう変わらない身長。郷の命運を委ねるにはあまりに細く脆い双肩。人々の多大な期待を受けてなお翳りを見せないその瞳。それが志野崎伊織の知る博麗霊夢のすべてであり、いまをもって失われつつある姿だった。
勝つか負けるかではない。守らなければならないのだ。
なぜなら――、
「わかりました」
彼女は笑った顔が一番可愛いのだと、そう発見したのは伊織なのだから。
「霊夢さんは俺が――私が守ります」
伊織の瞳に宿った戦乙女の魂を、紫は見逃さなかった。
「今回は私も参戦するわ。といっても即席の手ほどきしかできることはないけれど」
「よろしく頼みます。紫さんがいれば心強い」
伊織は借り物の傘を丁寧に畳み、手近な巨木の洞を選んでその中に置いた。
この戦いが終わったそのとき、必ず霊夢にお返しします――そう祈りを込めて。
「行きましょう」
決意とともに伊織は地面を蹴り、一挙に森の最上層へと躍り出た。
「紫さん!」
「任せなさい」
即座に追いついた紫が、その手に握られたカラスの羽根を頼りに先導を開始する。
並み居る枝に暴風の足音を刻み、真紅の弾丸が雨中を駆ける。
雨滴も雨雲も、すでに物の数ではなかった。