雨滴の騒音
本当に強いのは誰なのか? この問いに対する答えこそ、今の霊夢がもっとも必要としているものであった。打ち消しても打ち消しても脳裏にちらつく伊織の影が問うてくる。あなたは私に勝てない、どうしようもなく弱い、なのにどうして戦うのか、と。
いや、と霊夢は心中で反駁する。
経験ならば負けていない、確かにそのことは言えると思う。しかし裏を返せばそれだけだ。他のどの部分でも勝てる自信がないから、経験などという曖昧な指標を持ち出して自分を優位に置こうとするのだ。先の戦闘でわかったではないか。経験なんて役に立たない。あるいは役に立つ経験を自分が持っていないだけか。いずれにせよ規格外な力を前にすれば場数なんて気休めにもならないのである。それよりは単純なパラメータ馬鹿の方がずっと信頼できる。
涙がこぼれる思いだった。
紫はなんてものを用意してくれたのだろう。
パワーバランスが崩れるなんてものじゃない。あんなのは反則だ。曲がりなりにも保たれてきた幻想郷の平和を内側から壊しかねない存在である。そのデメリットが、彼女の圧倒的戦力というメリットを上回ってしまっている。放っておけばそれこそ手がつけられなくなるだろう。今はまだ内憂外患の『外患』の部分、すなわち所在不明の妖怪が目下の問題であるから議論の俎上にはのぼらないが、いつかこの問題にひとつの区切りがついたとき、紫は彼女の処遇をどうするつもりなのだろう。単純に郷に置いておくのは危険すぎる。力と記憶を抜き取って外の世界に帰すか。穏便に済ませられるならそれが最良の選択肢なのだろうが、しかしリスクを度外視すれば伊織は最強の用心棒になりうる。舵取りは難しいかもしれない、しかし上手く使えば――
霊夢は首を振ってその考えを打ち消した。
だからそれでは駄目なのだ。この幻想郷において霊夢は最強の存在であり、それは覆しようのない事実であり、だからこそ守られてきた多くの利益があるはずなのだから。伝統が重んじられる理由のひとつはそれだ。外側から安易に構造をいじくれば必ず被害が降りかかる。手間と時間をかけ、疲労と苦労を積み重ねることで構築され維持されてきたシステムに水をかぶせるような真似は自分にはできない。絶対に。
――だから私は、今度こそ敵性妖怪を倒さなければならない。
伊織の強大な力を借りること、それはすなわち大きな負債を抱えることだ。いつか大きなツケを支払うときがやってくる。それが幻想郷という文字通りの巨大な膜構造に穴を空けてしまうものなのかどうかはわからない。誰にもわからない。だからこそ怖いのだ。それは未曾有の大災害という形で訪れるかもしれないし、あるいは地下水のように、人目につかない暗い部分から染み出してくるものなのかもしれない。
期せずして、志野崎伊織は生ける御法度になった。
それは八雲紫の失策によるものか、それとも遠大な深慮遠謀によるものか。
ともあれこれで理論武装は完了だ。
博麗霊夢が独断専行をするに足る合理的な理由づけはこれで終わった。脆弱すぎる感情を冷ややかな理屈で覆うことはもうしなくていい。
伊織には勝てないかもしれない。しかしそれは彼女より弱い奴に負ける理由にはならない。
依然として妖怪の匂いは途切れていない。追えども追えども目標が遠く離れるような気はするが少なくとも追える限りは追えるのである。いつかその首根っこを捕まえてやればいいだけのことだ。霊夢は全身に力を込め、空を切るその速度によりいっそうの拍車をかけた。
霊夢の頭上に澱んだ雲が垂れ込め始めた。冷たい雨が降ってくる。髪と服が濡れ、視界が濡れ、眼下の森が薄靄にかすむ。どこかでカラスが一際高く鳴いた。
――見つけた。
木々の隙間にうごめく影を霊夢は捉えた。今度は前ほど大きくない。距離を計算に入れた上で多少大きく見積もっても成人男性を越えるか越えないかといったところだろう。匂いもこの辺りで強くなり始めている。まずあいつが目標と見て間違いない。素早く算段をまとめ霊夢は空中に静止、直立不動の体勢をとる。
彼我の距離は直線で百メートルあまり。相手の力量がわからない以上なんとも言えないが、おそらくまだこちらの気配には気づいていない。あまりに動きが緩慢すぎるのだ。あまつさえこちらに背中をさらけ出して、さあ攻撃しろと言わんばかりである。
「望むところよ」
またとない先制攻撃のチャンスである。前の鬼との戦闘でもやはりこちらが先手を取ったが、あのときはいささか真正面過ぎた。今度こそ正真正銘のバックアタック。
一瞬でケリをつける。
目を閉じ、口中に呪文を唱える。吹きつける風とザンザン降りの雨をもろともしない霊夢の集中である。むしろこの雨は僥倖だった。相手が感知にすぐれた妖怪だとしてもこの雨がやっこさんの鼻と耳をつぶしてくれる。賽の目は六を示したわけだ。それに比べてやつは一、よくて三といったところだろう。この優位性は覆らない。
詠唱が終わった。溢れくる霊力を極力体内に押しとどめ、霊夢は前に突き出していた両手を大きく水平に切った。光の筋がその軌跡に沿うように生まれ、巨大な和弓を形作る。
あの戦い以降数週間、霊夢も手をこまねいていたわけではない。外部妖怪の襲撃が単独で終わるはずがない、そんなことは誰よりもよくわかっていた。次は負けないように、郷を守れるように、苦手なりにできるだけの努力は重ねたのだ。
その集大成がこの弓である。
門外不出の新技にして大技。それゆえまだ名前もない。実績もない。
しかしこれだけは言えるはずである。
ここでこの技を使うのは、あまりにもったいない。
鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん――この武器を前にすればもはややつは小物である。
しかし手段を選ぶ余裕もなかったのだ。
霊夢は左手に弓を構え、右手に一枚の呪札を挟み、それに向けて強く念じた。強力な祈念を受けた札はたちまちのうちに白光をまとい、長く巨大な鏑矢へと変じた。
これで準備は完了だ。
霊夢は弓を引く――矢をつがえ、けして良好とは言えない視界の中、限界まで高めた集中をその一射に乗せてきりきりと引き絞り、
ぴたりと狙いを定め今、
放つ。
解き放たれた必中の矢が風を切りつつ空をゆく。雲を噛み霧を打ち払い、射線上の雨を根こそぎ蒸発させた霊夢の矢は森の木々にぶつかってなお止まらず、その衝撃波だけで活路をこじ開け目標に差し迫った。
的中の刹那、霊夢はこちらに振り向く敵の姿を見た。だがもうなにもかもが遅かった。相手は気づくのかもしれない。しかしなにに気づくのかといえば、こちらの存在に気づく前に自分の死に気づくのだ。
ついに矢が敵の心臓を捉えた。愚直なまでの直線軌道を描いた一撃は目標のど真ん中に突き刺さり、えぐり、捻じ切り、焼きつぶしたのち七色の爆光に変わった。あたり一帯に飛び散る影にも肉片にも似た物体、これぞまさしく霊夢の勝利の証であり、しかしそれもまたひとささえもしないままに蒸発した。
霊夢はしばしの間、少しの身じろぎをも我が身に許さなかった。弓を引き終え、しかし気は張り詰めたままに光源を見つめ、やがてその光も消え、周囲に静寂が帰り、すべてが還元したところでようやく大きな息をついた。
「終わった…………」
ゆるゆると霊夢が地面に降下する――
その一瞬を狙っていたのだ。
「ゆえにお前はここで死ぬ」
声は、これまたやはり背後から聞こえた。
霊夢の判断にわずかな隙が生じた瞬間を、ものの見事に急襲された形であった。
――そんな、確かに倒したはず、
「我が同胞の仇、今この場所で討たせてもらう」
弾かれたように振り返り、
霊夢はそこに、奇妙に捻じ曲がる自分の腕を見た。