武功
笑い死に寸前だったそうである。
「飢えていたのよ」
キノコの毒が抜けきった後で霊夢は伊織にそう語った。
「だってあんた寝ちゃうんだもん。なにか食べようと思ったんだけどどうせあんたなにも用意してないでしょ、でもこの身体じゃ外には出られないし、どうしようかしらと思ってたら魔理沙が来て……そこから先の記憶はないんだけど」
「絶対キノコ食べてるじゃないですか。なぜそこをぼかすんですか」
「不甲斐ないわ」
「変に格好つけないでくださいよ」
目を覚ました伊織が最初に目にしたものは向かい合う二匹の獣であった。もちろんこれは比喩であり、本当は二人ともちゃんと人間の姿をしていたのだが、あれは人間ですかと聞かれても即座には肯定できない、そのくらいにはいかれていたと思う。霊夢と金髪の女(以下金髪)は口も裂けんばかりの笑い声をあげながら互いに互いの目を見つめあい、なにやら舞いのようなものを舞っていた。この『舞い』という表現については賛否が分かれるところだと思うけれども、これは単に当事者の伊織から見た彼女らの動きが『どことなく日本の古典芸能に見えた』だけのことであり、人によってはそれが蛇の脱皮にも宇宙開闢の表現にも見えたのだろうが、あえて彼女らの真意は語らずにおく。
動きを単純に説明すれば『両足を互い違いの方角に向け闇雲に両腕を振り回しながら飛び跳ねる』というだけのものなのだが、ここに不可解な笑いという要素が加わることによって事態は急転直下の趣を見せる。初め、伊織は彼女らを遠巻きに見ていることしかできなかった。伊織は自分がこの幻想郷において異邦人であることを十分に心得ていたから、霊夢たちのみょうちきりんな動きも文化圏の違いから生まれた所作であり、無慈悲に排斥することは失礼にあたるだろうと踏んだのである。しかし同じ光景に三十分も立ち会えば考えも変わってくる。長きにわたる観察を経て伊織は『もしかしてこの人たちは異常なんじゃないか』と思い始め、次いで『幻想郷の常識と自分が住んでいた世界の常識はさほど変わらないのじゃあないか』という考えを抱いた。それらの仮説を踏まえたうえでもう一度霊夢たちの動きを見てみると、なるほどこいつは常軌を逸している。まず筆頭にあげられるのは目の焦点が合っていないということだ。いくら文化の差を考慮したとしても意図的に視線を狂わせるのは難しかろう。
つまりこういうことになる。
目下、伊織の前で踊り狂うふたりの少女は正気を保てていない。
「紫さーん」
伊織は誰もいない虚空に向けてその名を呼び、いくらもしないうちに紫は現れ、事態は収束を見たということである。
「いやはや、思いつきでキノコを食べるもんじゃないな」
金髪は後頭部をかきながら、たははと笑った。
「だいたい事情はわかりましたけど、なんでここに来たんですか。あ、えーと」
「魔理沙だ。霧雨魔理沙。魔法使いをやってる」
「魔理沙さん、ですか。私は志野崎伊織といいます」
なにはともあれ、伊織と魔理沙の初顔合わせである。
現在、この博麗神社社殿には四人の人妖が集まっている。長い黒髪を二つに縛る伊織、その伊織が作った粥を一心にかき込む霊夢、訳知り顔の紫、黒魔女魔理沙の四人である。
「ここらじゃ見ない顔だな、お前。伊織って名前も聞いたことないし」
「外の世界の子よ。紫が連れてきたの」
暴食の合間から霊夢が告げる。
「ああ、そういうこと」
「……あまり驚かないんですね、魔理沙さん」
「だってお前、紫が人さらってくるなんて日常茶飯事だもんなあ」
「あなたも大概失礼ね、魔理沙」
広げた扇子の奥から、紫がぎらりと鋭い視線を送った。
「ひっ」
ひと睨みで魔理沙を黙らせると、紫は般若の形相から一転、平素のにやにや笑いへと表情をシフトさせ、伊織に向き直った。
「さて、と。あれから一度も顔を合わせていなかったけれど、まずは初戦お疲れ様といったところかしらね、伊織さん」
「は、はあ……どうも」
向き合ってみるとやはり掴みどころがない。なんというかすべてにおいて曖昧なのだこの妖は。硬派で軟派な軽薄重厚婦人、みたいな。意味なく人を叱りつけそうな気もするし、ウサギの交尾を見て終日笑いこけていそうな気もする。とにかく両極端でそのどちらにもイメージを片付けられないというか、胡散臭いことは間違いないのだけれどそれ以上深くまでは迫れないというか、拒まれているというか。
端的に言って、気持ち悪いのである。
「私があげた力はどう? 使いこなせたかしら?」
「あ、はい、どうにかこうにか、暴走しない程度には」
心にもないことを伊織は言った。というのもこの志野崎伊織という人物は――失礼と知ってあえてバラすが――とかく日本人ど真ん中な性質を持った人間なのである。日本人ど真ん中。何だねそれは、日本人に外角や内角の区別があるのかねそもそも、と思った賢明なる諸氏に向けて記すが、ここでいう日本人的なコース取りとはずばり『謙遜に見せかけた用心』のことである。心の底から自省と謙遜を徹底できる人間というのは実はあまり多くない。十人に一人いるかどうかといったところだろう。しかしある集団の中から一芸に秀でた人間を集めて「あんたすごいねー。才能あるんじゃないの? いやマジで」と聞いてみると大抵の人間は「いやいや、そんなことないですよ」といった風の返答をする。この時点ですでに欺瞞が生じている。本当はみな思っているのだ、「やっぱアナタもそう思うよね。いやー照れるわホント。才能があるって罪だよねー」と。みながみなここまであからさまではないにしろ、大なり小なりこれに準ずる感情を抱く人間がいることは事実であり、それ自体は取り立てて糾弾するべきことでもないのだが、問題はそれを心中深く秘したうえで表面的には謙虚な人間を取り繕ってしまう日本人の病理にある。
それではここでもう一度先ほどの紫と伊織のやり取りを振り返ってみよう。
『私があげた力はどう? 使いこなせたかしら?』
『あ、はい、どうにかこうにか、暴走しない程度には』
おわかりいただけただろうか。
これはあからさまな自己防衛である。実はこの時点で伊織は『いやー俺って強いなー。だってあんなゲームみたいな技を使う霊夢さんにさえ倒せなかったバケモノをのしちゃうんだからさ。もうホント、向かうところ敵なしってやつだよね。アイアムチャンピオン!』という感情を本人さえも意識しない部分で抱いている。が、ひとたびこれを口に出そうものなら総叩きに遭う、という予感を志野崎伊織は過去十七年に渡る人生経験から会得していた。そこで彼女は自身のありのままの感情を抑圧し、極力軋轢を生まない、大衆受けのする言葉を代理に立てることでこの場をやり過ごしたのである。
しかしそれを海千山千の八雲紫が見過ごすはずもなく、
「上辺だけの謙遜はいいのよ。あなたはよくやったわ。おかげで博麗の巫女も大事には至らなかったしね」
「え、あ……は、はい、ありがとうございま、す?」
紫がその言い回しに含めた意味を、伊織はついに察することができなかった。
「ごちそうさま」
霊夢が箸を置き、手を合わせた。先だっての「いただきます」から十分あまり、土鍋に山ほど作っておいた粥は今や影も形もない。
「そうね、伊織が私を助けてくれたっていうのは本当みたいだから、そのことについてはまあ……感謝、してるわ」
霊夢の口調は次第に弱々しくなり、最後には尻切れトンボのようになっていた。そらされた目はけして伊織に向くことなく、心なしか頬が赤い。
「おいおいなんだお前、霊夢を助けたってのか?」
魔理沙が驚愕に見開かれた目で伊織を見た。その驚きたるや格別で、下手をすれば「え、なに、お前が軍神マルスだったの?」と言わんばかりの血相である。
「はい、一応。妖怪退治に同行させてもらったときに」
「妖怪退治?……ってまさか、あの鬼をやっつけたのってお前なのか!?」
「……はい」
「どっひゃー!」
おっさんか、というつぶやきを伊織は声に出さない。
「こいつは驚きだぜ。お前強いんだな。見た感じ全然そんなんじゃない……っていうかどうみても普通の女の子なのにな」
女の子。何気なく放たれた一言に伊織は動揺を隠せなかった。
そうだ。今一度伊織は自分の置かれた境遇を認識するべきである。今自分が身に着けている服も刀も腕っ節も性別も、すべてはお仕着せの貰いものに過ぎない。いつかはこれを脱ぎ捨てる必要があるし、またそれを忘れないようにしなければならない。
しかしその一方で、もう戻れない地点まで自分が足を踏み入れているということも感じずにはいられなかった。この幻想郷という場所は、たとえば遊園地のような日帰りの非日常とはわけが違う。明確な出入り口もなければ閉園時刻もない。どだい終わりが設けられているというのは幸せだ。ここからここまでと時間を決めてその中で楽しめばいい。自分を管理するという仕事に無責任でいられる。しかしこの場所ではそれができない。自分の行く末を決めるのは自分しかいない。終わらせなければ永遠に終わってくれない夢の舵を、それがどんなにつらいことであっても、握る必要がある。
「そう見えますよね、やっぱり」
「我慢なさいな、伊織。退屈はさせないわ、そのために与えた力なのだから」
いつしか、紫は伊織を「さん」付けで呼ばなくなっていた。
伊織と紫は互いに互いの目を見つめ、その裏で、瞳の奥に隠された感情の青白い火を窺っている。
「……また、戦わなきゃなんですよね」
「そう遠くないうちに、ね」
紫は壮絶に笑う。
その笑みは、余人の目をしてなお、妖の気を幻視させる。