遺留
件の乱戦から三日あまり。
後に「鬼ヶ谷」と呼ばれるようになる渓谷には、依然として人だかりが絶えなかった。興味本位の人間・妖怪はもちろんのこと、記録を旨とする歴史家から果ては新聞記者に至るまで、その顔ぶれは多岐に渡る。
「ほおー。これが噂の」
「何とまあ」
「ほれ見てみい。身体の向こう側なんてかすんで見えるわい」
詰めかけた群集は、各人思い思いの感想を漏らしつつ、彼らの中心に横たわる小山のような鬼の死体を眺めている。その状況たるや悲惨なもので、肘から切り落とされた両腕はめいめいにとんでもない方角を向いて転がり、左の眼孔には本来収まっているべき眼球がない。極めつけはその胴体で、一体どのような方法を用いたものか、鬼の腹部はまるで刃物を落とされたかのようにすっぱりと両断されていた。あろうことかその断面からはいまだに赤黒い血が流れ続けている。
今や幻想郷に暮らす誰もがこのまがまがしい遺骸の存在を知っていたが、しかしこれが誰の手によってなされたかを知る者はいない。
事態は、その中核たる剣士の存在を欠いたまま、第三者の憶測と妄想によって無節操に解体されていく。
「だから、私は大丈夫だって言ってるでしょ」
霊夢が誰にでもわかる嘘をついた。包帯でぐるぐる巻きにされた身体を無理に布団から起こし、痛みに顔をしかめながら強がりを言う彼女を見て、伊織は深いため息をひとつ、
「駄目ですよ、安静にしていないと。第一そんな状態で言われてもぜんぜん説得力ありません」
「何よ、私が平気だって言うんだからいいでしょ。大体この包帯だって大げさなのよ」
言って、霊夢は自身に巻かれた包帯を解き始めてしまう。伊織は慌てて止めに入ったが、相手が怪我人である以上、手荒な真似もできない。
が、こうなれば是非もない、
「えい」
許せとばかりに、霊夢の脇腹を指でつつく。
「いったあ!」
飛び上がらんばかりの悲鳴をあげて、霊夢が自分の腹を押さえた。その瞳には涙がにじんでいる。
「あ、」
「あ、じゃないでしょうがっ! も少し丁重に扱いなさいよ怪我人なんだから!」
「じゃあここで寝ていてください」
「う」
伊織の一言が霊夢の口にフタをした。そら言わんこっちゃない、つまらん意地を張ったって損なだけなのに感情だけで動くからそうなる。くだらない。だから女は嫌いだ。
などとはつゆほどにも思わない伊織であるが、今のやり取りが彼女の感情の血管を何本か破裂させてしまったことは確かであり、なぜかというに伊織は鬼を討ち取ってからこちら、ただの一度も目を覚まさない霊夢をほとんど寝ずに看病していたのである。誇張ではない。本当に、あるいは冗談のように、彼女の目は開いてくれなかった。こともあろうにこのクソアマ、博麗霊夢御大、偉そうに語っていわく、『私は強いからいざというときは頼ってね』。ところがどっこい箱を開けてみれば、先にピンチに陥ったのは伊織にあらず、霊夢ではないか。まったく聞いてあきれるというか何というか、ベテラン様だか弁天様だか知らないが、結局私に助けてもらったあげくつい今朝方まで寝こけやがってこの無能。
などとはやはりショウジョウバエの触角ほどにも思っていない伊織であるが、それでも眠いし腹は減るしもちろん乙女のハラワタだって多少は煮えくり返る。限界ギリギリまで引き絞っていた意識の糸が、ついに切れようとしていた。
「あの、霊夢さん。私ちょっと寝てもいいですかね」
「あ、え? ……ああ、うん、どうぞ」
霊夢が言い終わるより先に伊織は落ちていた。頭からどさりと霊夢の布団に突っ込み、うつ伏せの顔を無防備に沈めている。
念願叶って即身成仏を遂げたのではない。
極めて普遍的な、人間としての眠気にやられただけである。
電池の切れた犬の玩具が大抵これに似た動きをするが、伊織にはいわゆる断末魔の電子音というものが存在せず、代わりに気持ちよさそうな寝息をたてている。
「あれまあ、ほんとに寝ちゃったわよ」
霊夢は意図して大時代的な言葉を使ってみたが、誰も聞いていない。唯一の話し相手がノックダウンしてしまえばこんなものだ。身の回りにはつまらないものしか落ちていない。布団、畳、茶箪笥、不如意な沈黙。どれもこれも退屈の象徴めいたガラクタであり、目の毒であり、それよか腹が減った。
「あーお腹すいた」
手負いの霊夢だがまるきり動かせない身体ではない。立とうと思えば多分立てるし、簡単な料理なら作ることもできる。問題は食料のストックなのだがこれがないとなると骨で、何かしら買うか採りに行くかするために短くない距離を移動する必要がある。
そして多分、今、この博麗神社社殿にはろくな食べ物が残っていない。あってもしなびた葉っぱとか、ちびた根菜とかその辺りだろう。そんな在庫で腹ごしらえをしろと。
無理じゃん。
一瞬間のうちにそう断じた霊夢は、ひとまず急場の打開策として『睡眠』を思いつき、このあまりにも空虚な飢えを意識の奥底に沈めてしまおうと考えたのだが、さらに考えれば今の今まで眠りこけていた霊夢に二度寝などという選択肢はハナから残されていないのであり、目はギラギラするし腹はグルグルいうしこの畳を刻んで煮たらさぞ美味かろう。
「畳、か……」
霊夢が試みに手近な畳の一枚を剥がそうとしたその時、
「あははははははははははははははははははははははは!」
部屋の障子がぴしゃりと開いて、その向こうから姿を現す見慣れた人影。
「ひゃっはっはあはははっはあははっはははっはっはっああはは!」
無理にその風貌を表現するなら、「黒とんがり帽子金髪リボン女」であるがこの期に及んでそんな視覚情報が有用性を発揮するはずもなく、霊夢は自分が殺されてしまうのではないかという妄想に駆られた。
とにかく笑っているのである。あらん限りの世間から笑いの種になるものを集めて煎じて飲ませてやってもこうは笑うまいが、とにもかくにもこの女子、先ほどからその『笑う』という行為だけで古今東西の狂気を表現してゐる。
つまりやべーのである。
どのくらいやべーのかというと、この太平天国が今一度戦国乱世の世の中にバックステップしてしまうくらいやばい。
往々にして人は社会的合意や常識に寄りかかって生きる節があり、たとえばここではみんな右を向いているからワシも右を向こうという具合に、大多数がしていることを模倣して自分もその『大多数』に加わる、というプロセスを経ることで安心する。が、もちろん右を向きたがらない連中というのも多少はいて、こういうやつらは左を向く。ではこの一人大爆笑金髪がどうなのかといえば前述の左向き野郎どもをさらに凌駕し、みなが右を向いているときにこいつは道行く野良猫を捕まえてキクラゲの栽培法を講釈する。そのくらいかけ離れたことを平気でするのである。
今一度彼女を見てみよう。
「ぎゃはははははははは、うわーはははははははは!」
この少女、名を霧雨魔理沙という。今でこそご覧のありさまだがこんな変態にだって常識ある親がいて、きちんと教育されてきたわけで、けしてその教育内容に「積極的な反社会行為を心がけるように」とは記されていなかったはずである。しかし悲しいかな、人とはかくも難しい。
「ちょっと魔理沙、落ち着きなさいよあんたなに笑ってんのよ、鎮まりなさいよ」
当たり障りのない文句をつらつら並べてみるも真の狂人を前にしては意味がない。これは実力行使に出るしかないか? 痛みをこらえ立ち上がりつつ霊夢は頭の片隅で考えたが、いかにせん腹は減ってるし身体中傷だらけだしでまともな実力を行使できるとは思えない。と、ここで偶然にも霊夢の目にとまったものがあった。
はじめ手ぶらに見えた魔理沙であったがそんなことはなく、とはいえやはり右手にはなにも持っていなかったが、左手になにやら小さな異物を握っている。ダメ元で霊夢がそれを渡すように頼んでみると意外にもすんなりと魔理沙はそれを差し出した。バシッと取り上げてクワッとにらみつける。
カサの部分に歯型のついた、毒々しいキノコであった。
「あ……」
霊夢はすべてを察した。
なぜこんな、誰の目にもそうとわかる毒キノコを食べるのだ魔理沙は。霊夢はため息をつき、手に握ったそれをもう一度だけまじまじと見た。
原色丸出しのカサと独特の水玉模様、そこまではまだいい、話はわかる、ギリ許せる。だがなぜ柄の部分までその模様なのだ。これではキノコかどうかさえ危うく思えてしまうではないか。「え、なにこれ、キノコ……? いや携帯電話か」と勘違いする人が続出するではないか。これでは誰も幸せになれないではないか。
「はあ……」
霊夢は再度ため息をつき、飢えに飢えたその身体に流し込むように、毒キノコを頬張った。
日常が悪夢に変じた。