初陣
「なるほどね、それで気がついたらここに倒れてたってワケ」
「そう……いうことになるんですかね、一応」
「はあ」
霊夢は小さくため息をつくと、
「紫ね、間違いないわ」
「紫?」
それは人名か何かだろうか。
「あの……紫というのは?」
「おいおい説明するわ。はい、お茶」
「あ、どうも」
博麗霊夢とのファーストコンタクトから十分あまり。自分が行き倒れであること、ここに参拝する気があること(彼女としてはこちらが重要であるらしい)を伝えると、彼女は上機嫌で伊織を社殿の中に招き入れてくれた。
向かい合わせに霊夢と座り、出された渋茶をずずずっとすすって、伊織は失礼に当たらない程度に建物の内部を見回してみた。
多少粗末ではあるものの、よく掃除の行き届いた部屋だなというのが伊織の第一の感想だった。使い込まれた茶箪笥やちゃぶ台には時代を感じるが、畳の間には埃ひとつ見当たらず、蜘蛛の巣の類も一切ない。家主の几帳面な性格がうかがい知れた。
「霊夢さんはここにひとり暮らしなんですか?」
「そうよ」
「えっ」
何でもないことのように霊夢は言う。
「でもそれって危なくないんですか」
「どうして?」
「どうしてって、こんな山の中……山の中ですよねここ? こんなところにひとり暮らしなんて、どう考えても危険というか」
「あはは、大丈夫よ、私強いから」
冗談で言っているのだろうか。どう見てもこんなか弱い女の子が強いようには思えないが、実は格闘技を極めていたりするのかもしれない。伊織の知り合いにひとり、そういう子がいたから、滅多なことは言えない。
「どのくらい強いかっていうと、ひとりで妖怪を退治しちゃうくらい強い」
「はあ。妖怪、ですか」
「あ、信じてないわね? って言ってもしょうがないか。あんた外の世界の子だもんね」
今度は外の世界ときた。一体何のことを言っているのだろうか。妙に浮世離れした霊夢の様子といい、不可解ないくつかの単語といい、まったく話が見えてこない。
「あの、ひとついいですか」
「ん、何? あ、おせんべい食べる?」
「結構です。あの、さっきから外の世界とか紫とか妖怪とか、正直わけがわからないんですけど」
「んーそうねえ、別に話してもいいけどさ。一気に説明して信じられる?」
そう言われてしまえば、確かに自信はなかった。
廃駅での一件、そして今自分が「女性として」博麗霊夢に相対しているという事実。そんなもの、実際に体験したって容易に信じられるものではないし、まして説明を受けただけで自分を納得させられるとは思えない。
が、信じないなら信じないで一体どうだというのか。目の前で起きていることに目をつぶってみたところで、志野崎伊織が男に戻るわけでも、家に帰れるわけでもない。
ひとまずは、霊夢の言うことをまるごと信用して前に進まなければならないのが現状ではないのか。
「信じます」
自然、口が動いていた。
「というより、信じなければならないものだと私は思います。そうしないと、私の身に何が起きているか、説明できないから」
私という一人称には、いまだ慣れない。さらに言えばこの声にも、髪にも、細い手足にも違和感はつきまとっている。
「へえ、物わかりいいのね、あんた」
「人並みにはわかるつもりです」
沈黙をおいて、霊夢は笑った。
「うん、よし、じゃあ教えるけど、私が言うより本人から話聞いた方が早いわね」
言うなり霊夢は、
「紫ーっ! 見てるんでしょーっ! 出てきなさーいっ!」
誰もいない(はずの)空間に向けて、大声で呼びかけた。案の定、返事なんて返るはずもない。
「あの、霊夢さん?」
「ちょっと待ってなさい。すぐ出てくるから」
すると、それから十秒もしないうちに、
「あらあら、私としてはもう少し待ってもいいと思ったんだけれどね」
信じられないことが起こった。
霊夢の隣、何もないはずのその空間が唐突に裂け、中から人影が姿を現した。それもそんじょそこらの人影ではない。
紫色の道士服、長い金髪のそこかしこにリボン。
間違いない、伊織を一連の事件に巻き込んだあの女性だった。
「あ、あなたは!」
「あら久しぶりねえ伊織『さん』。何ヶ月ぶりかしら」
「ふざけないでください! あなたのせいで私はいまこんなことに……」
思わず立ち上がりかけた伊織を、女性の白くたおやかな手が制した。
「まあお待ちなさいな。乱暴なやり方は私、嫌いよ」
「あなたがそれを言いますか!」
とはいうものの、そう言われてさらに食い下がるほど伊織も聞き分けのない人間ではない。霊夢の手前もあるし、ここで一悶着起こすのは、やはり穏やかではない。
「私に刃向かってもいいことなんてひとつもないわよ。それに、あなたがもともと伊織『さん』ではないということも、まだ霊夢には話していないのではなくて?」
「……くっ」
それは露骨な脅しだった。もしも伊織が男だったということをこの人にバラされれば、せっかく上手く行きかけていた霊夢との関係は非常にギクシャクしたものとなってしまう。それだけは何としても避ける必要があった。まことに不本意ではあるが、この女性(確か名前は紫といったか)には従わなければならないようだった。
「紫さん、といいましたか。俺……私、を、ここに連れてきたのはあなたなんですよね」
「そうね」
紫はいとも簡単にそれを認めた。彼女にとって重要な点は、おそらくそこではないのだろう。
「私を元の場所に返してください。霊夢さんにはすみませんが、こんなところにいつまでもいるわけにはいかないんです」
「いやよ」
紫は一向に取り合おうとしない。
「どうしてですか」
「だって面倒なんだもの。せっかく連れてきたのに、帰しちゃったら意味がないじゃない」
紫はことさら眠そうな表情を作って言った。さっきからずっとそうだ。この人は、相手をいら立たせる方法をよく心得ている。だから嫌いだ。
「面倒って……そんな言い方はないでしょう! 道さえ教えてくれればひとりで帰りますよ!」
「無理よ」
「何でそんなことが言えるんですか。ここが山奥だからですか」
「……いいわ。霊夢、説明してあげなさい」
「あんたが言えばいいじゃない」
「私が言っても信じないわよ」
「……それもそうね」
霊夢は大きなため息をついてから、伊織の目を真っ直ぐ見つめて話し始めた。
「まずは謝っておかなきゃね。うちの身内があなたに迷惑をかけたみたいで、ごめんなさい」
言って、深々と頭を下げる。
先手を打たれたな、と伊織は思った。
ここまでされてしまっては伊織も怒るに怒り切れない。思うに霊夢もまた、この紫という女性に振り回された哀れな被害者のひとりなのだろう。だから察してくれ、だからこの場はひとつ怒りを収めてくれ、という心の声さえ聞こえてくるようだった。
そして霊夢は顔を上げ、誠実の色を宿した瞳で次なる言葉を継ぐ。
「結論から言わせてもらうと、あなたは自力ではここから出られない」
「そう……ですか」
何となくそんな気はしていたが、はっきり言葉に出して言われると、その分ダメージも大きかった。
「かいつまんで……本当にかいつまんで言うとね、ここは幻想郷という特別な場所で、周囲を結界に覆われているの。だから自力では出入りすることができない。もし出たいのなら、ここにいる妖怪、八雲紫の力を借りるしかない」
それは、とても絶望的な話であるように伊織には思えた。
先ほどの問答でわかったのは、結局、紫が伊織を元の世界に帰すつもりがないということだけだった。理由なんてわからない。が、これ以上いくら頼み込んでも、紫は絶対に首を縦には振らないだろう。
何てこった。
「もう一度聞きますが、なぜ紫さんは私をここに連れてきたんです」
「そんなことを聞いて一体どうするつもり?」
伊織は今一度居住まいを正して、綿の少ない座布団に座りなおした。女性の視点から見る紫の姿は、向こうが立ち上がっているということもあってか、以前駅で会った時よりも大きく見えた。
「今すぐ帰れないということは、この際だから受け入れます。ですが、あなたが私にここで生きろというのなら、せめてその理由を聞かせてください。でなければ納得がいきません」
「あら、思った以上に聡いのね、あなた。少し驚いたわ」
「紫。いい加減にしたらどうなの」
見かねた霊夢の横槍が入る。
「そうね」
紫は、この時ばかりはあっさりと、その真意を告げた。
「あなたに妖怪退治をしてほしいのよ」
「妖怪、退治?」
ふざけているのかと思った。
何せ妖怪退治である。さっきからわけのわからないことばかり言って、その極めつけがこれか。伊織は即座にそう考えたが、今回はどうにも彼女の様子がおかしかった。
八雲紫は、ひどく真面目な顔つきで、志野崎伊織を見つめていた。
ただそれだけのはずなのだ。
そのはずなのに、伊織は自分の心臓を鷲づかみにされるような恐怖から逃れることができなかった。
「ちょっと紫、あんた本気なの」
微妙な空気の変化を読み取ってか、霊夢が怪訝な表情でたずねる。
「本気も何も、私は最初からそのつもりよ」
張り詰めていた紫の表情が、ふいにふっとほころんだ。さっきまでの真剣さが嘘のように、またぞろあの胡散臭い笑みが帰ってくる。
「私があなたを連れてきた理由はふたつあるわ。今のがそのひとつ」
「……もうひとつは?」
両膝に置いた拳をぐっと握りこみ、おそるおそる伊織はたずねる。
「そうねえ、これはとても言葉にしにくいのだけれど……強いて言うならそう、興味本位、といったところかしらね」
「…………」
そんな気はしていたが、いざ言われてみるとあきれて物も言えなかった。そんなことのために自分はここにいるのか。他人の興味で自分は女にされてしまったのか。
「……もういいです、わかりました、紫さんの言うことに従わせてもらいます。やりますよ、妖怪退治でも何でも」
「そうこなくっちゃ」
もうどうにでもなれだ。こうなれば妖怪だろうが怪獣だろうがやっつけてやる。男が女になる世界なら、一般人だって豪傑になれるだろう。
「でも、妖怪退治って具体的に何をすればいいんですか。そもそも妖怪って何ですか。盗賊の隠語か何かですか」
「違うわよ。妖怪は妖怪。お化け物の怪魑魅魍魎の類よ」
「そう言うだろうと思ってましたけど、でもやっぱり実感が湧きません」
「あら、私だって妖怪よ。さっき霊夢が言ってたじゃない。ねえ霊夢?」
ちらと隣をうかがう紫。対して霊夢は疲れた顔でため息をつき、
「そうね」
と告げたのみだった。
「ということは、つまり妖怪退治というのはそのものずばり、妖怪を退治することなんですね」
「だからさっきからそう言ってるじゃない。何だかあなたって聡明なのか抜けているのかわからない部分があるわね」
「放っておいてください」
「そういうわけにもいかないわ。あなたには今夜にでも出かけてもらわなきゃならないのだから」
「え、今夜……ですか」
それはいくら何でも話が早すぎる気がする。伊織はにわかに色めき立ち、ちゃぶ台を回り込むようにしてつかつかと紫に詰め寄った。
「あの、紫さん」
「何かしら」
「妖怪退治って、危険が伴うんですよね」
「そうね」
「血はでますか」
「そうね」
「骨は折れますか」
「場合によってはね」
「死にますか」
「…………」
「紫さん!」
もう駄目だ。伊織は視界が急速に暗転していく感覚を覚えた。
「何脅してんのよ紫。ほらしっかりして、大丈夫よ伊織。そんな、死ぬなんてことは万にひとつもありえないし、それに私もついてるから」
悲劇に打ちひしがれる伊織を、霊夢の手が慰める。
「霊夢さんも?」
「そう。妖怪退治は私の仕事なの。だから、いざというときは私の背中に隠れていれば何とかなるから」
「霊夢さん……」
何と頼もしい言葉だろうか。伊織とさほど年も違わないはずなのに、この少女の笑顔は、何と人を安心させることか。
「それにしても、」
ひるがえって、紫に向けられた霊夢の目つきは険しい。
「紫、あんたどういうつもりなの? こんな弾幕ごっこさえ知らないような子に妖怪退治を任せるなんて、正気の沙汰とは思えないけど」
「それなら心配は無用よ。本人はまだ気づいてないみたいだけれど、伊織ちゃんには、とっておきの力を仕込んでおいたから」
「またそうやって思いつきで動く」
「なりふり構っていられないのよ、もう」
紫の顔から笑顔が消えた。
「……?」
唐突に投げかけられたその言葉の意味を、霊夢は測り知ることができない。
「それ、どういう意味?」
紫の目は、遠く神社の外の木々を見つめている。
「幻想郷に侵入者。外の妖怪が一匹、入り込んだわ」
「!」
「あの……紫さん? 霊夢さん?」
ひとり事態から取り残された伊織だけが、幼い子供のようにきょろきょろとふたりの顔を見比べている。
「敵性は?」
霊夢が問う。
「今のところはないわね」
紫が答える。
「でも、夜になって凶暴化する可能性は十分にあるわ」
「了解。伊織は役に立つのね?」
「そのはずよ。一級の刀も用意しておいたから、少なくとも邪魔にはならないわ」
ふたりの会話は、そこで途切れた。
紫がぱちりと指を鳴らすと、かつて伊織が見た光景――何もない空間が縦に裂け、その中にのぞく数え切れない目――が姿を現した。彼女は躊躇なくその中に踏み入り、振り向きざま、伊織にウインクを送ると、裂け目はあっという間に閉じてしまった。
「霊夢さん」
「働いてもらうわよ、伊織」
その声音には、何人も有無を言わせない響きがあった。
「……妖怪退治、ですね」
「そう。あんたの世界がどうだったかは知らないけど、この幻想郷では働かざるもの食うべからずよ。……夜を待って、出撃するわ」
「でも、正直言って怖いです。紫さんは、私の身体に力が宿っているとか何とか、言ってましたよね? 本当でしょうか。そんな力は、少なくとも私の主観では、全然感じられないんですが」
「安心なさい」
そう言って、霊夢は伊織の頬に触れた。
「……霊夢、さん?」
そっと包み込むような、あまりにも優しいその感触。触れた指先は暖かく、生の感情がその指先を通じて伊織の体内に流れ込むようだった。
そうか、これが、女の子の手か。
そして今は、自分もまたその女の子なのだと、伊織はそのきめ細やかな指先に知ったのだった。