少女
『さすがにちょっと手荒すぎたかしら。ごめんなさいね伊織くん……じゃなかった、今はもう「伊織さん」だったわね。この際だからあなたの性別の境界を少しいじらせてもらったわ。だってその方が面白いものね。
さて、これからはどう生きていくもあなたの自由よ。ひたすら戦いに明け暮れるもよし、燃えるような恋愛に身を焦がすもよし。あなたを咎めだてするようなものは、すべてあなたが自分の力で取り除いていくことができるわ。
さてと。そろそろ時間だから、私はこの辺りで失礼させてもらうわね。
それでは、最後にひとつだけ。
――ようこそ、私の幻想郷へ』
息苦しさで目が覚めた。
自分が寝ているか座っているかもわからない数秒の混乱をやり過ごし、伊織はゆっくりと辺りを見回した。
どうやら自分はここで仰向けに寝ていたらしい。誰かの声を聞いていたような気もするが、どうにも思い出せない。
頭上には、風に揺れる木々の梢。
背中に感じる硬く冷たい感触。
胸の上で毛づくろいをする三毛猫。息苦しさの正体はおそらくこれだろう。目が合うと、猫はまたたく間に近くの茂みへと姿を消してしまった。
まだ意識のはっきりしない頭を振って、伊織は身を起こした。もう一度だけ周囲に首を巡らせる。
鳥居と社殿と石畳が一同に会する場所。神社と見てまず間違いないだろうが……神社?
どこだ、ここ。
確か自分は学校をサボって、町外れの廃線をたどって駅を見つけて、それで、
それで、
「……!」
その瞬間に、電撃のような記憶の束が伊織の脳裏を駆け巡った。
道士服、日傘、長い長い金髪、口を開ける闇、
『これは夢の扉よ――』
あれは、夢だったのだろうか?
そうでなければ確かに説明はつかない。あの怪現象にも、今自分が見ている光景にも、明確な理屈を与えてやることができない。その点で「夢」という言葉は非常に便利だ。どこで何が起きようとも何らおかしなことはない。たとえ死ぬほど恐ろしい目に遭おうがどうなろうが、いずれすべてがなかったことになるさと楽観視することができる。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。
あまりに強引すぎる理屈ではないだろうか。
とにかく、今の自分に言えるのは、ここで考えごとをしていても事態は前に進まないということだけだった。
神社の散策だけでもしてみよう――伊織はそう決めて、立ちくらみにふらつきながらもどうにか立ち上がった。
と、そこで自分が着物を着ているという事実に始めて気づく。
「え……何だこれ。和服?」
夜を染め出したような漆黒の着物を、伊織はまとっていた。
しかしさらなる問題がひとつ。
「は? 何だ今の声……え、うそ、俺の声!?」
伊織の声が、伊織の声ではなくなっていた。
かつての男性の声とは程遠い、鈴を鳴らすような澄んだ女性の声である。
「ちょっと待ってくれよ……嘘だろこれ。うっそだろ!」
やけになった伊織は、およそ誰も聞いてはいないだろうという思いから、彼方の青空に向けて一通り卑猥な言葉を叫んでみた。
が、当然のごとく、それで伊織の声が戻ることはなかった。言うのも聞くのも恥ずかしいような言葉の羅列が、周囲の林にこだましただけだった。
「ちょっと待ってくれよお……」
伊織はその場にへたり込んだ。こんな声では人前に出ることすらままならない。男が可愛い声で喋ったって気持ち悪いだけだ。そう、俺は――
男、なのか――?
全身から一挙に血の気が引いていく。
まさかそんなことはないだろうと思うも、確かめずにはいられなかった。伊織はあわてて自分が着ていた着物の胸に手を突っ込み、ないはずの中身を確かめてみた。
と、そこに、あった。
生々しいまでの柔らかい感触。
およそ男性にはありえない、乙女の膨らみ。
「うわああああああああああああああああああっ!」
伊織は雄たけびをあげた。
これが叫ばずにいられようか。なぜだ。おかしい。間違っている。こんなことが起きてたまるか。こんなことがあってたまるか。伊織はわけもなく走り出したい衝動に駆られた。自分を含むすべての存在に、何なら世界に、「俺は男だ」と訴えて回りたい気分だった。
その後も、伊織は自分の身体を熱心に調べつくした。が、調べれば調べるほどに、男子にあるはずのものがなく、ないはずのものがあるという現実が積み重なってゆくばかりであった。
結論。
志野崎伊織は、議論の余地なく女性である。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
伊織は雄たけびをあげた。いや、それはもはや雄たけびではなく、単なるメスの叫び声に過ぎなかった。
そうして、たっぷり三十分もの時間をかけて、伊織はこの事実が認めざるを得ないものであることを飲み下すに至ったのであった。
「どうすんだよちくしょう……こんな格好じゃ家にも帰れない……」
むしろ家にこそ帰れない。正体不明の不可抗力による女性化なんて、一体どこの誰が信じてくれようか。後ろでくくった伊織のポニーテールが悲しげに揺れる。
「いや、待てよ……」
そもそも自分は帰れるのだろうか。
確かにこんな姿で家に帰れないのは事実だが、そもそもここはどこで、伊織の町とどれだけの距離を隔てているのかということがわからなければどうしようもない。北に行けばいいのか南に行けばいいのか、どれだけ電車を乗り継げば帰れるのか。一切がわからない状態で伊織はこの神社に放り出されてしまった。二日三日かかるかもしれないし、あるいはそれ以上かかるかもしれない。せめて携帯電話があればまだしも楽なのだが、
「あ、そうだケータイ」
伊織ははたと顔を上げ、周囲の茂みを探ってみた。自分が今、着物の中身も含めて手ぶらなのはさっきの調査でわかっている。かくなるうえは身の周りの怪しそうな場所をしらみつぶしに当たるしかない。
が、それらしきものは一向に見当たらない。
「くっそー、せめてケータイだけでも見つかってくれればなあ。あーでもこんなところじゃ圏外かなあ」
と、伊織の手がついにそれらしきものを探り当てた。
「お、何だこれ」
勢いよく引き抜く。その正体は、
「うわ重っ……何これ、刀?」
であった。
土産物屋で売っているようなチンケな模造刀では決してない。博物館が後生大事に所蔵しているような本物の刀である。きらびやかな鍔の装飾とは裏腹に鞘は真っ黒な漆塗りで、降り注ぐ陽光を鈍く照り返している。試しに抜いてみると中から現れたのは目も眩むような白銀の刀身。素人の伊織にも、それがどれだけの力を秘めたものであるかは何となく察せられた。
「すげえ……」
ひとまず刀を鞘に戻し、伊織は今一度、その太刀を眺めた。
初めて見たものであるはずなのに、それはどうにも懐かしい情感をともなって伊織の目に映るのだった。理由はわからない。が、この一振りはどうにも自分の手に馴染む。
「…………」
持っていれば、護身用にはなるだろうか。
「持っとくか、一応」
伊織は立ち上がり、黒光りする太刀を腰に差した。
まさにその時だった。
「さっきからうるさいと思って来てみたら……ここらじゃ見ない顔ね。誰よ、あんた」
少女の声は背後から聞こえた。
今度は飛び上がることはせず、伊織はあくまでゆっくりと、後ろを振り返った。
紅白を基調にした服装。頭には大きなリボン。つやのある黒い髪に大きな黒い瞳。
「……俺、じゃない、私は志野崎伊織といいます」
「ふーん。で、何、今日はうちに道場破りでもしに来たってわけ?」
「いや、そういうわけでは。えっと、散歩の途中でお参りでもと思って」
「へえ、あっそ」
少女は素っ気ない態度で伊織の前を通り過ぎ、境内の石畳をひとしきり歩き、くるりと振り返るやいなや、
「私は博麗霊夢。お参りなら、いつでも大歓迎よっ!」
満開の花のような笑顔で言ったのだった。