その八重垣を
さかのぼること十五分あまり、ここで志野崎伊織に視線を転じる。薄暗い空の下、雨に打たれながら一心に樹々の海を駆ける少女は一時たりともその場にとどまることをしないが、霊夢のいるとされる戦場まではまだいくらかの開きがある。しかしその速さに嘘はない。わずかな負荷でも折れてしまいそうな細く白い脚は、その予想を一瞬ごとに裏切りながら無限の跳躍を重ねていく。そしてこの脚が詰めつつある数キロの距離は、彼女に残されたわずかな修業時間そのものでもあった。
「本当に何でもいいの、紙でも石でもハサミでも何でも。大切なのは――」
「想像力、でしょう。やってますよさっきから。でもなかなか上手くいかなくて、もうどうしたらいいのか、」
弱音も飛び出すというものだった。伊織が紫に託された札、一枚につき一本の髪が練りこまれたそれは、使い手の想像次第でどんなものにも姿を変えられるのだという。たとえば剣、たとえば弓、たとえば舟――およそ作れないものはないということである。にわかには信じがたい話だし、現にこうして頑張ってみても肝心の札はまったく応えてくれない。加えて走りながら修業をこなすとなれば、その厳しさは想像を絶する。こんな時に才能の有無を論じても仕方ないとはいえ、伊織の脳裏にはいよいよ焦りと諦めの念が兆し始めていた。
「生み出したいものの形をなるべく詳細にイメージしなさい。曖昧なままではいつまでも形にならないわよ」
「って言っても紫さん、この短時間じゃさすがに厳しいと思います……」
何せ敵さんは待ってくれないのだ。『こちらで新技を仕上げてから乱入したい、だからそれまで勝負を預けてくれ』なんて寝言がまかり通るはずはなく、やるからには多少なりとも戦える状態で首を突っ込まなければならない。しかし主要武器の刀は使えず、目立つ行動はご法度な上に時間がないとくれば伊織にできることはおのずと限られてくる。それを踏まえた上で、紫に貰ったこの札は、確かにこの制限の中で上手く立ち回る手段のひとつには違いない。もっとも使いこなせればの話で、できなければそれはただの紙くずである。今もって伊織が念を込めている札を、ゴミとするか千変万化の至宝とするかは、等しく彼女の腕次第なのであった。
……のだ、が。
「…………?」
ここで伊織の中にひとつの疑問が生まれた。
紫は、どうしてここまで大きな賭けに打って出たのだろう。
ただ霊夢のピンチを救うためならこんな面倒はしなくていいはずだ。練度の低い武器などという不確定要素は早々に捨てて、何なら紫自身が参戦すればいい。その方がよほど勝率は上がるし、何より霊夢を危険にさらさなくてすむ。妖怪だから戦わないとか巫女だからひとりでやるだとか、そういうことはこの際除外して考えるべきだ。それとも、紫の助太刀でさえも霊夢の威厳を傷つけてしまうのだろうか。先ほどまでは思いもよらなかったことだが、いざ考えてみるとおかしい点が多すぎる。霊夢の救済を後回しにしてでも、紫が自分を優先する理由――、
冷たくおぞましいものが、黒い着物に包まれた背中を駆け抜けた。
――もしかして、もしかしてこの妖は。
伊織はちらと紫の横顔を窺ってから、意を決して話しかけた。
「あの……紫さん」
「どうしたの? 質問は手短になさい」
そんなことはわかっていた。が、たとえ長くなろうとも、これだけは訊いておかねばならなかった。
「俺の武器がこれじゃなきゃいけない理由ってなんですか」
答えは、すぐには返ってこなかった。
ゆえに伊織は言及を重ねることにした。
「俺が戦ってることを隠したいなら別に飛び道具でもいいですよね。もっとちゃんとした、形のあるもの……たとえば弓とか鉄砲とかでも構わないはずです」
「……それがどうかして?」
「どうかしてって……だからおかしいじゃないですか。紫さんは、何か俺でも使えるような遠距離武器を持ってないんですか?」
「そんなものはないわ」
紫の声のトーンが一段低くなった。それは彼女の心理に変化があったことを示していた。訊きたくはない。が、訊かねばならない。霊夢のためを思うなら、これ以上はなるべく手短に。
「ない……? それは一体どうして」
「必要ないからよ」
突き放すような返事だった。
そしてこの含まれた意図こそが、八雲紫の内心を何より雄弁に物語っていた。
冷静であろうと思ったが無理だった。これ以上は、感情の歯止めが利かなかった。
「嘘ですよ!」
糾弾の意思は、思いのほか強い言葉となって口から飛び出した。
「そんなわけないじゃないですか! 確かに札だけで戦えるならそれが一番いいですけど、でも、それでも優先すべきは霊夢さんの救出のはずだ! 俺の技にこだわってる場合じゃないでしょう!?」
言う間にも、志野崎伊織の動きは止まらない。不規則な枝を次々に蹴り、紫とともに淀みない前進を続けている。しかしその手に持てる武器がないならば、一体この救援に何の意味があるというのか。
紫は伊織の言葉にも眉ひとつ動かさなかった。あるいはその姿さえ、見えていないかのようだった。
「こだわってる場合なのよ」
ひどく平坦な声が伊織の鼓膜をかすかに揺らす。
「せっかくの実戦じゃない。せっかくの出番じゃない。霊夢の持て余した仕事があなたに回ってきたのよ。これを逃す手があると思う?」
この状況を楽しむように紫は言う。
「ふざけないでくださいよ!」
「ふざけてないわ。あなたは強くなりたいと思わないの? 私はあなたの力を買っているのよ伊織」
「そういうのがふざけてるっていうんだ!」
もう我慢できなかった。霊夢を軽視するその言動も、こちらを見透かすような態度も、博麗神社にいた時とは比べものにならないほど冷たい。もはやどの紫が本物で、どれが偽りの顔なのかもわからなくなった伊織は無我夢中で刀を抜き、左手を飛ぶ道士服に向けて振り下ろしていた。
二本の指で止められた。かなりの力で斬り下げたはずの太刀は、紫の細く白い指に挟まれたまま、少しも動かせなくなっていた。しかし伊織に驚きはなかった。互いの力が拮抗したまま空中に静止し、なおも紫に怒りの視線をぶつける。
「もし俺がこの札を使いこなせなかったら、どうするつもりだったんですか」
「そうならないためにあなたが頑張るんでしょう」
「そうじゃない! 俺はあんたがどうするつもりだったかを聞いてるんだ。霊夢さんのピンチに俺が出せなかったら、あなたは黙って彼女がやられるのを見ていたつもりですか!」
「それはその時にならなきゃわからないものだわ」
「くそっ!」
話にならないとばかりに刀を引き抜き、伊織は手近な枝に飛び乗った。一滴の血も吸っていない刃を鞘に収め、決然と紫に向き直る。
「違和感はあったんですよ。霊夢さんの独断専行に対するフォローの甘さ、出足の遅さ。俺の技への不可解な制限。博麗の巫女の威厳を守るってこともあるんでしょうけど、それだけじゃ片付けられない部分も少なからず残る。紫さん……あなたは一体何を考えているんですか?」
紫は肩をすくめた。明らかなオーバーアクションは、引きつった伊織の神経を逆なでせずにはおかない。そのくせ浮かべられた笑みは冷徹で、何者をも寄せつけぬ凄みを放っている。
「霊夢に対する信用の表れ、と言ったら信じるかしら?」
「紫さんに限ってそれはないはずだ。あなたはもっと計算高く、理屈で物事を考える妖でしょう」
「……意外とよく見ているのね」
「だから俺は考えたんですよ。紫さんは俺の能力に関することで何か企んでるんじゃないか、その企みにはこの札が少なからず関係していて、実戦で試す機会を窺っていたんじゃないかって」
「…………ん、そうね。なかなかいい線いってるわ」
「霊夢さんの犠牲はやむなしってことですか」
「そうは言ってないじゃない」
「言ってるようなものでしょう。現に霊夢さんは危険な、」
その時だった。強い光が彼方の空に弾け、数秒遅れて低い爆音が轟いた。とっさに光の方角へと目をやった伊織は愕然とする。今なお輝き続ける北の空は、ふたりが目指した霊夢の戦場にぴたりと重なる座標であった。
「なっ……」
言うべき言葉が虚空に消える。
本当ならば伊織は何もかもを振り捨てて霊夢のもとに殺到するべきだったのかもしれない。しかしこの時点で、白熱した伊織の頭におよそ思考と呼べるほどの上等な意識は何ひとつ残されていなかった。
「ゆ、紫さん……」
結局彼女にできたのは、今しも敵と見なしていた妖怪への、情けない停戦要求だけだった。
「大丈夫よ。あれは霊夢の技だから、まだよろしくやってるってことでしょう」
「……助けてきます」
状況に振り回されるとはまさにこのことなのだろうと伊織は思う。目的を見失い、紫の真意も測れないまま後手後手に回る自分がどうしようもなく歯がゆくて、恥ずかしくて仕方なかった。己の経験不足をつくづく呪う。そしてその呪いがゆえに伊織は飛び出した。行く手をさえぎる雑多な枝をなぎ倒しなぎ倒し進む様はまさに鬼神のごとくであったが、しかしその後ろ姿は、触れれば壊れてしまいそうな危うい脆さをも等分に併せ持っていた。
札の秘術は形にならず、霊夢との距離はいくばくもない。そんなことはわかっている。わかっていても、ここに立ち止まる勇気を伊織は持たない。走らなければ、無力な自分が追ってくるのだ。ここで止まれば食われてしまう。
「あっ、」
弱まりつつある光の中にふたつの人影が見えた。その距離わずかに三百メートル。黒い甲冑を着た立ち姿に向き合う赤い巫女服――、
「霊夢さん!」
届かない。絶望的なその事実が、巨大な壁となって伊織の前に立ちはだかる。
「待っててください! 今行きます、今行きますから、」
次の瞬間、伊織の視界が大きく縦にぶれた。頭を掴まれたのだと思うより先に降ってくる声、
「伊織、」
それだけだった。
それだけのことで、身体から急速に力が抜けていく。
「紫……さん……」
「ここから先に行ってはいけない」
すべてを一刀の下に断ずる声音だった。しかし伊織も負けてはいない、わずかな反感の意思を必死により合わせ、貼りつく声を使い物になるまで叩き直す。
「は……離してください。霊夢さんが戦っているんだ。早く手助けに――」
そこで伊織は、自分が物理的な力以外の何かで押さえつけられていることに気づいた。しかしそれに気づいたところで、もはや何が変わるわけでもなかった。
「助けてどうするつもり?」
紫の態度は変わらない。
「まだわからないのねあなたは。霊夢は自分の命ひとつをかけて戦っているわけじゃないのよ。あなたの直接的な介入は何の実も結ばない。この間のように運よく誰にも見られないなんてことが何度も続くと思われたら困るのよ」
「そんなことはこの際どうでもいいでしょう! 何でわからないんですか、死んだら何も残らないんですよ! 消えてなくなっちゃうんですよ! あなたはそれでもいいんですか!」
しかしその声は、誰のもとにも届かない。
——そして、無情にも状況は動く。
「あ……」
伊織は見た。
躍る黒い甲冑、白銀の刀身、霊夢の表情、その恐怖、音のない雨、振るう刃、吹き飛ぶ右腕、悲鳴、空、非情な灰色、
事態は一瞬のうちに流れ、凍る身体になす術はなく、その全てを見届けた伊織は、事実に対してあまりにも純粋すぎた。
自分の叫び声が聞こえる。ぐにゃりとゆがんだ視界が、直前に起きた出来事の全てを否定する。暴発した感情は怒涛のごとく荒れ狂い、流れ、とどまることを知らず、ついには伊織の全身を満たし、その華奢な身体をひとつの行動へと駆り立てた。
迷いのない指先が、懐深くに隠された一枚の紙を探り当てる。白地の表に流麗な墨書きで示された『志野崎伊織』の五文字を一瞥し、怒りにその両眼を赤く染めた少女は、居合抜きを思わせる一振りで呪札を空に放った。
才能が何だ。
想像力が何だ。
そんなもの、全部まとめて焼き尽くしてやる。
伊織は両の手を高らかに打ち合わせ、言葉ともつかぬ呪文を叫び、その声を確かに聞き届けたらしい呪札は、霊夢の頭上でどす黒い輝きとともに炸裂した。
輝きは降りしきる雨を押し広げ、瞬く間もなく巨大化し、見上げるばかりの大空に、不可解な歴史的事実として出現する。
長大な、鋼鉄製の機関車であった。
単なる見かけ倒しではない。黒い塗装は伊達ではないし、車輪も窓もちゃんとある。然るべき路線に然るべき置かれ方をすれば、十中八九まともに走る。けれどもここは空中で、その自重を預けるべき大地は遥か下方にあった。
重力の呪縛を受けた車体が、緩やかながらも確実に自由落下を開始する。
その直下に立ち尽くす武者と霊夢は、もはや避けようのないその六両編成の災厄をただただ呆然と見上げている。
沈黙を守る紫は、その口の端にわずかな笑みを浮かべているように見える。
そして灼熱した伊織は、血気に逸った自身の致命的な間違いに未だ気づいていない。
降り続く雨の中、物言わぬ鉄色の汽車は、支えを欠いた物体の当然の帰結として、どこまでも樹々の生い茂る幻想郷の大地に吸い込まれていった。