鬼面の深奥
軽く見ても骨の二、三本、という状況だった。いびつに捻じ曲がった腕はもはや腕としての機能を果たさず、このままでは戦闘利用は見込めそうもない。醜く腫れあがり、不気味に変色した右手首を力なくぶら下げた霊夢は半ば本能的に対象から距離を取った。痛みに白く塗りこめられた頭を左右に振り、反撃の術を模索する。
霊夢の意に反して敵はそれ以上追ってこなかった。追いすがれば攻め立てられるものを、空中に立ち尽くしたまま微動だにしないその様はまるで、もう復讐は果たしたと言わんばかりであった。しかしそのおかげで霊夢は、自分の腕をへし折った怨敵の姿をよろしく目に焼きつけることができた。
深くまとった羽織の下に和製の鎧、顔には妖しげな鬼の面をかぶり、素顔を隠している。黒系統に統一されたそれらの色合いは一切の自己主張をせず、薄暗い雨中の視界にはややかすんで見える。背丈はどこまでも人間のそれだが、放たれる存在感がその見かけを実際以上に大きく見せ、霊夢を圧迫する。
「不意打ちとは酷だな、博麗の巫女。時と場は定め置いたはずだが」
一度金属にくぐらせたような、いびつな響きを持った声だった。霊夢は眉を寄せたのも一瞬、
「何でそっちの都合に合わせなきゃならないのよ。それともあんた、自分がくせ者だってことわかってないの?」
腕の痛みを気取られまいと、努めて涼しげに言い放った。
鬼面はやはり一歩も動かない。
「言ってくれる。ならば貴様は咎人だな。我が同士を殺した、咎人だ」
「やっぱりあいつの仲間だったのね、あんた。でも弔い合戦なんて何の意味もないわよ。それに、悪いやつを退治してもそれは罪には含まれない。何かを守るってそういうことでしょ? って言ってもあんたにはわからないか」
「……なるほど、それもまたひとつの理」
鬼面は一度大きくうなずくと、組んでいた両手を左右に広げ、大音の拍手を打ち鳴らした。耳を打つ高音が駆け抜け、再びその両手が開かれたときには、そこに一振りの刀が出現していた。
「然れどそれは貴様の理。我が理とは相反するもの。ふたつの道理がかち合うならば、目下捨て置く心得もなし」
鬼の目は霊夢を射抜き、ひたと据えられた刀に迷いはなく、いつしか雨は止んでいた。
「戦え、博麗の巫女。私は貴様を殺し、貴様は私を殺す。いずれの意が通るものか、互いの腕に確かめようではないか」
「……そういう古めかしいの私嫌いだわ。でもあんた刀持ってるし、いかにも悪そうだし、やられて黙ってらんないし。やっつけたげるわよ」
飄々と言ってのけた霊夢は口こそ達者だが、実のところかなり消耗していた。
折られた腕が治らないのだ。
霊夢は自然界から引き出した莫大な霊力を自身の回復に当てることができる。ある程度の集中が必要とされるため戦闘中の治療はできないが、あの鎧武者風の敵と言葉を交わすだけの時間があれば、少なくとも折れた骨の部分的な接合ぐらいはできたはずだ。いつもの手筈なら。
しかし今回は勝手が違った。
武者とのやり取りをする裏で霊夢は必死に霊力をかき集めたが、集めても集めても肝心の傷口にはまったく変化が現れなかった。どれだけ意識を凝らしても、青黒く腫れた腕は頑として持ち主の治療を受けつけないのだった。
前代未聞の事態だった。
いつも通りなら上手くいくということは、今がいつも通りの状況ではないということだ。当然普段とは違った反応、動き、思考パターンが要求されるし、その分身体にかかる負担も大きい。
霊夢の頬を冷たい汗が伝う。
手負いでそれはさすがにきつい。
そもそもの始めからして、霊夢は追い込まれる状況というものに慣れていないのだ。追い詰めてからの振る舞いには長けていても、その逆となると滅法弱い。絶対的な経験値、踏んだ場数というものがこの巫女には欠けていた。
だがしかし、諦めるにはまだ早い。
たとえ右腕がいかれようとも、霊夢の意志は健在だった。
敵の情報を分析する――先ほど霊夢の腕を曲げたのはおそらく神通力の類だろう。これがひとつめの武器。ふたつめがあの刀だ。十中八九は近接武器だろうが確証は得られない。要警戒。
現状出揃っている武器はこれだけだが、神通力の危険は無視できるレベルだ。ある一座標への集中が基本となる神通力は、不意打ちでなければまず当たらない。攻めるよりなおかわすことを得意とする霊夢に、そのようなのろまな技は二度通用しまい。相手もそれを察した上でおそらく刀を抜いたのだ。ではこの刀はどうか。
伸びる刀に飛ぶ刀、イレギュラーな刃物にもいろいろあるが、遠目に見据えた限りではそうしたカラクリは見られない。周到に隠された可能性もなくはないが、小さな懸念を切り捨てなければ始まらないのが賭けである。
と、ここまで瞬時に算段を立て、霊夢の元にはひとつの選択肢が残された。
すなわち、遠距離攻撃による長期戦である。
端からこれしかないというなら、確かにそれもそうだった。霊夢の戦法はワンパターンでこそないが、その根幹は弾幕ごっこで得たノウハウの無尽蔵な焼き直しでしかない。
大雑把にくくれば、霊夢は中・遠距離戦を得意とする少女である。反面近距離戦は苦手で、懐に潜り込まれると途端に戦いは厳しくなる。しかしこの事実を霊夢ははっきりと認識しておらず、ただ『近距離型の敵は例外なく強い』という間違った経験則をわずかに蓄積するのみである。
ともあれ、今の彼女にはこれしかなかった。
霊夢は大きく後ろに飛びのき、元々離れていた彼我の距離をさらに大きく取った。使える左手を袂に突っ込み、手製の呪符を数枚取り出す。
「待て、博麗の巫女!」
覚悟を決めて大きく気を吐いた霊夢に、鬼神の面が呼びかけた。
「貴様の名を聞かせろ! 名前のひとつも知らぬうちに殺めるのは忍びない!」
「……。とことん古臭いのね、あんた」
「我が名は鬼禄。西国の外れより同士を追ってここに来た。さあ次は貴様の番だ。正々堂々名を告げよ!」
知らずため息をついていた。西国って。これはまた面倒な敵と当たってしまったものだ。見た目が流行遅れなら、その志も相当古い。幻想郷でその感触なのだから、外の世界では一周回ってニューカマーだ。霊夢は呆れて物も言えず、ついには腹が立ってきて、一言叫び返したくなった。
「おあいにくさま! 賊に名乗る名前なんてないわよ!」
不気味な黒塗りの面が、ほんのわずかに顎を引いた。
「…………賊、か。ならば結構」
再び降り出した雨の一粒が、刀の先に当たって弾けた。
「その命、すでに黄泉比良坂を越えたるものと心得よ!」
「上等!」
鬼が吠え、霊夢が応じ、ここに戦いの火蓋が切られた。
まず大きく動いたのは鬼禄だった。構えた刀を前に突き出し、空気の膜を突き破るように殺到する、ごまかしのない直進軌道。踏み出す一歩ごとに鳴る足音は、あたかも空に足場があるかのようだった。
無論それを黙って見ている霊夢ではない。芸のない突撃を一笑に付し、携えた札を腕の一振りでばらまくと、空いた左手に光を掴んで一気呵成に乱れ撃った。
さながら花の散るがごとく飛散したエネルギー弾は、宙を舞う札に触れることでその威力を何倍にも増し、巨大な横殴りの雨となって鬼禄の身体に襲いかかった。
幾重にも重なった爆発が、鬼の姿をつかの間光の下に覆い隠す。
手ごたえはあった。が、これだけで倒せるとも思っていない。ひとまず機先は制したというだけのことであり、それより重要なのはこのアドバンテージにあぐらをかかないことであった。ゆるんだ足元をすくわれるのが自明なら、それが陥りやすい罠であることもまた自明である。先ほど学んだばかりのことだ。あの油断がなければ、霊夢の腕が壊れることもなかったのだから。
霊夢は新たに一枚の札を取り出し、手短に呪力を込めたそれを右腕の患部に貼りつけた。鈍い光が発し、作業そのものは数秒で完了した。
「……よし」
引いていく痛みを感じながら、確かめるように霊夢はうなずいた。
これはあくまで応急処置であり、正しい回復の手段ではない。攻撃を治療に転用したそのカラクリは、札を貼りつけた部分に一時的な封印を施すことで痛覚神経を黙らせるというだけの荒いものである。くさいものにフタをするこのやり方は厳密には治療ではないし、後々の処置は必須なのだが、戦闘中は存外これが役に立つ。
何しろ痛みを感じないのだ。
戦いにおいては、単純な能力の不足よりも怪我が足を引っ張る場合が多い。特に切羽詰まった局面における一瞬の判断ミスを取り返すことはほぼ不可能で、それがそのまま死に繋がることも多くある。そしてその判断ミス、反応ミスは、多くは戦闘時の負傷によって誘発される。
無論アドレナリンやエンドルフィンにも痛みを殺す作用はあるが、霊夢はこれらに頼ることを潔しとしなかった。さらに言えば、霊夢は最近になってようやく幻想郷に流れ始めた『神経伝達物質』なるうさんくさい単語を端から相手にしていなかった。
そこでこの札の登場だ。
主観的な痛みをゼロにするこの手法によって、今や霊夢の反応速度は完全に復活した。使えない右腕のことはすっぱり思考から切り捨てて、後は動かせる部分だけでできることを考える。霊夢の瞳が輝きを増す。それは、スロースターターな彼女の闘志にようやく火がついたことを意味していた。
「さあ……どっからでもかかってきなさいっ!」
その声に応えたのは爆風であった。
光に飲み下されたと見えた鬼禄の姿がその内側から覗く。黒い陣羽織はさすがに焼け焦げ、ところどころちぎれ飛んでいたが、肝心の本体は目立った傷もなく健在だった。
「……まあ、あの程度じゃやられてくれないわよね」
「笑わせるな」
残光の中に揺らめいて見えた鬼禄が刀を横薙ぎに振るうと、エネルギーの残滓は今度こそ風に巻かれて見えなくなった。
「何だこの技は。子供の遊びではないのだぞ」
「面白いでしょ? 幻想郷の女の子たちはみんな弾幕で遊んでるのよ」
「笑わせるなと言ったのだ!」
鬼禄の大喝が響く。同時に、彼方の山で雷鳴が轟いた。
「私は貴様への仇討ちのためにここに来た。それだけだ。それだけの思いで私は今ここにいる。我が同士……我が主君の無念を討ち果たさねば帰るまいと、この刀に誓ったのだ」
鍛え抜かれた金属が鳴った。
それを聞いた霊夢の中に、小さく冷たい感情が灯った。
燃え上がりかけていた闘志が、急速に勢いを減じていく。
笑わせるなはこっちの台詞だ。
「……何よ、せっかくいい感じだったのに」
せっかく見ないようにしていたものを、眼前で広げられた気分だった。
「知らないわよそんなの。あんたは賊。私が守る幻想郷に敵意むき出しで入ってきた時点でどうしようもなく賊なの。これは決定事項なのよ。それとも何、自分は違うとでも言いたいわけ? 撤回しろとでも言いたいわけ? 馬鹿じゃないのあんた。仇討ちだとか忠義だとか、そういうの私に近づけないで。カビ臭いのよ全部。仲間の無念を晴らすためなら人殺しも許される、敵を取ればきっと仲間が喜んでくれる。そんなのあんたの自己満足じゃない。エゴじゃない。守れなかったものにいつまでもしがみついて、みじめったらしいったらありゃしない」
極めつけに、霊夢は言ってやった。
「臭い自意識振り回してると、本当に殺すわよ」
鬼禄は、無防備な棒立ちの姿勢で、じっと霊夢の話を聞いていた。
その手は震え、刀を取り落としそうになっていた。
「……わかっておるのだ、そんなことは。貴様に言われるまでもない」
それを聞いた霊夢の中で、決定的に何かが白けた。
「あっそ。だったらとっとと消えてくれる? 私の強さはあんたじゃ証明できないってことが、わかった気がするから」
鬼禄が、再び刀を上段に構える。
「あいにくと、そのつもりはない」
「じゃあ……私が倒すしかないわね」
いかにも億劫そうに顔を上げた霊夢の目が、鬼面の奥の瞳を捉える。
刹那、見なければよかったという後悔が彼女の背中を駆け抜けた。
「道理は万能ではない。我が復讐の意は正当や否や、理屈をもって問うてみても答えは返ってこなかった。ゆえに――」
そして、霊夢が瞬きをした次の瞬間には、漆黒の面が鼻先に迫っていた。
「この刀をもって、私は貴様に問わねばならない」
無二の右腕を斬り飛ばされ、博麗霊夢は叫び声をあげた。
同刻。
抱き合うように密着したふたりの頭上に、突如巨大な構造物が出現した。
霊夢に視認できたのは、整然と並んだその車輪のみである。
蛇足ですが、
鬼禄のイントネーションは、「レタス」と同じです。