1.異世界に召喚されました
「はあ。いい季節になったなあ……」
晴れ渡る青空を見上げながら、彼女はしみじみとそう言った。
大学に進学して、早1ヶ月。
彼女、志田悠里は文学部歴史学科の学生として、充実したキャンパスライフを送っている。
と言いたいところだが、彼女の心はこの日の青空ほどは晴れやかではなかった。
それはゴールデンウィークの前日、つい一週間くらい前に起こった出来事が原因だった。
その日。
彼女の携帯に一通のメールが届いた。
彼女はその差出人を見て驚愕した。
「す、須江田くん……」
(何で?何で、彼がわたしにメールを!?)
思わず挙動不審になる自分を叱咤して、彼女は震える指先でそのメールを開いた。
そこには。
『ゴールデンウィークに一度帰省するので会ってほしい』
「どういうこと~~~っ!?」
自宅の一人部屋で、悠里は叫んだ。
「だって、だって、須江田くんは……」
そう、須江田くんは、卒業式直前に長年の想い人に思い切って告白。
そして見事に相思相愛の仲になったばかりだった。
今は彼の進学先が県外だったために遠恋になってしまったが、仲良くやっていると、彼の恋人となった親友から聞いたばかりである。
それなのに、どうして、よりによって悠里に会いたいなどと言うメールを送って来るのか。
悠里は混乱した。
混乱したまま、部屋を出て、階段を下りて勝手口に向かう。
そこにいつも置いてある、彼女専用の長靴を履いて勝手口から外へ出た。
そして愛用の鍬を引っ掴むと、ガスンと土に振り下ろした。
その後は黙々と土を耕し続ける、悠里。
そうしていると、次第に彼女は落ち着いてくる。
何も考えなくなって、心も頭も無になり、ただ一心に自然との対話の中に入り込むのだ。
祖母の畑の一画、彼女に与えられた僅かなスペースに一通り鍬を入れ終えると、彼女は一息ついた。
綺麗に掘り返された畑を見て、顔が綻ぶ。
彼女は決して人づきあいが上手ではなかった。
友人も多くはない。
高校時代。
同性とも決まった人としか喋れず、異性との交際など夢のまた夢の話だった。
大学に入ったら、少しは変わろう。
そう決めて入学したのに、出だしでつまづいた。
結局、未だクラスメイトとは挨拶を交わす程度で、親交はない。
明日からのゴールデンウィーク。
遊びに行く予定など皆無だし、夏野菜の種撒きをしようと張り切っていた。
それなのに……。
「あんな、メール。なんで送って来るかなあ」
悠里は溜め息混じりに呟いた。
親友に話してみようかとも思ったが、もしそれが彼らの喧嘩の原因になってしまったらと思うと、余計なことはすべきではないと思う。
親友は悠里の想いを知らない。
悠里の想いを知らせる前に、彼女も須江田くんを好きなのだと知ってしまい、彼女の性格上敢えて自分の気持ちを伝えることは出来なかったのだ。
彼女の想いが強いと知ってしまったから。
少ない友人の中で、一番気持ちを許せる人だから。
親友と片思いの相手を天秤に掛けて、悠里は親友を取ったのだ。
それでも、決して悠里の気持ちが親友に劣るということではない。
鬱々としている分、悠里の気持ちは心の中で増幅する。
膨らんで、膨らんで、それが抑え切れなくなったら。
普通なら、相手に思いを告げるだろう。
だが、彼女は奥手に過ぎた。
抑え切れずに、その想いを封印してしまったのだ。
そして、向かうのは畑。
家庭菜園という場が、彼女にとっては現実逃避の手段だった。
メールを受け取った翌日。
悠里は指定された待ち合わせの場には行かなかった。
家にいて、ただ黙々と、畑に種を撒き続けていた。
芽吹く日を楽しみにしながら。
心の中では、須江田くんの面影を追いながら……。
澄み渡る青空。
「いい季節になった……」と呟きながらも、悠里の胸に去来するのは、須江田くんに会わなかったことへの心残りだった。
一週間前。彼に会っていれば、何かが変わっていただろうか。
不意にそう思ってしまう時もあるけれど、会わないと決めたのは自分だった。
それを今更残念に思うなんて、自分で自分が情けなかった。
やはり自分には土との対話が似合っている。
恋だの、交際だの。
彼女にとっては遠い話だった。
悠里はジョーロを片手に空を見上げる。
彼女の心とは裏腹に、空はどこまでも晴れ渡っていた。
ジョーロの中に水がなくなると、まだ小さな芽も見えない土の上に、黒々と水の跡が残っていた。
ぷーんと土の匂いが漂う。
「うん、いい匂い……」
悠里はうっとりと呟いた。
その時だった。
畑の周りを囲む垣根の向こうから、遠慮がちな声が掛けられた。
「志田?」
その声に、悠里は思わずジョーロを落としていた。
何故、今、この時に、彼の声が聞こえてくるのか。
彼のことを考えるあまり、幻聴が聞こえるようになってしまったのだろうか。
「志田」
もう一度呼ばれた。
悠里はふるふると小さく首を振ると、垣根の向こうに目をやった。
そこには、幻聴でも幻覚でもなく、確かに彼が立っていた。
一週間前、敢えてメールの返事を返さず、会わなかった彼。
その彼が、どうして自ら悠里の元にやって来るのか。
そんなに悠里に会いたかったのか。
悠里はまた混乱した。
おろおろとジョーロを拾い上げる。
そうすると、少し落ち着いた。
彼女にとって農機具は、彼女を守る盾。彼女の心の拠り所だった。
土の中から「がんばれ」という、小さく幼い声が聞こえた気がして、悠里はやっとの思いで笑顔を作った。
唇を歪めただけの、酷い笑顔だったと思うが、それが今の彼女の精一杯だったのだ。
「志田。久しぶり」
高校時代、見かけては心を奪われた彼の笑顔に、悠里の心臓が早鐘を打ち始めた。
そんな悠里に構わず、須江田くんは遠慮がちに話を続けた。
「この前、メール送ったんだけど、見なかった?」
「あ……ごめん。見たんだけど、いろいろ忙しくて……」
彼に届くのかと思うような小さな声で、悠里は答えた。
「そっか……。待ってたんだけどな。志田の返事」
悠里は視線をさまよわせた。
彼の真意を測りかねて、ジョーロでは足りず、心は鍬を求めていた。
「どうしても会って話をしたかったんだ。大学は明日まで休みだから、思い切って志田んちまで来てみたんだけど。良かったよ。元気そうで」
「……どうして?」
「ん?」
「どうして、わたしに会いたいって」
消え入りそうな声で問う悠里に、須江田くんは垣根越しに近付いた。
「ほら、志田って、詩織と仲良かっただろ?」
「詩……織……」
その名に、悠里の心臓が痛いほどに反応した。
そう。その名こそ、彼女の親友であり、須江田くんの彼女である女性のものだった。
彼らは、もう呼び捨てするほどに親しくなっているのか。
それなら、なおのこと、ここまでして須江田くんが悠里に会いに来た理由が分からない。
もういっそ、断って鍬を取って来ようか。
「けどさ、大学が別々になってから、なかなか志田に会えなくなったって詩織が悲しんでてさ。詩織、俺と付き合ってるから、きっと遠慮してるんだよって、俺、詩織に言ったんだけど。それでも、やっぱり仲のいい子と会えないのは寂しいって、詩織言うんだよ」
知らなかった。
彼女がそんな風に思っていたなんて。
確かに、遠慮していた部分はあったと思う。
遠恋で、なかなか会えない二人の時間に、割り込んではダメだと思っていた。
だから、春休み中も、大学に入学してからも、詩織に連絡することなく過ごしていたのだ。
けれど、それ以上に悠里の心を支配していたのは、二人が仲良くしている話を聞きたくはないということだった。
自信なんてない。
自分が須江田くんの想い人になれる筈はないと分かっている。
けど。
だからこそ、辛かった。
劣等感の塊のような自分を、家庭菜園という殻に閉じ込めて、悠里は自己防衛しているのだ。
その防御体制にあるところへ、ひょっこり現れてくれた、須江田くん。
何のつもりだと言いたくなる。
けれど、実際には言えなかった。
惚れた弱みではない。
この後に及んで、悠里はまだ、須江田くんに嫌われたくはないと思っている。
一番にはなれなくても。
詩織の友人の一人くらいに思われていても。
嫌われてしまうよりは、ずっといい。
だから、悠里は、彼の望む返事を返す。
「詩織にそう思ってもらえて嬉しいな。わたしも、詩織に本当は会いたいの。須江田くんとの予定がない日には、詩織と遊んでもいいのかな?」
と。
すると、彼は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「良かった。志田にそう言ってもらえて。きっと詩織も喜ぶよ。週末はけっこう俺との予定が入ってるけど、君は詩織と大学近いもんな。平日に詩織が空いてたら、会ってやってよ。君はいつでも暇だろう?」
悠里は胸を抉られたようだった。
この言われようはなんだ?
どうして、片思いの相手から、こんなこと言われなきゃいけないんだ?
そもそも、わざわざ人の家まで来て言おうと思ったことが、これなのか?
いくら、3年間片思い中の相手とは言え、あんまり無神経じゃないか。
悠里はジョーロを持つ手を小刻みに震わせながら、須江田くんを見つめ返した。
須江田くんは、これでやっと詩織の懸念も払拭されると、一人喜んでいる。
「じゃあ、詩織にも、志田がこんな風に思ってるって伝えておくよ。やっぱり直接会いに来て良かった。メールだと、どうしても返事待たないといけないし。要領を得ないよね。君も土いじりばっかりやってないで、詩織に遊んでもらいなよ」
そうして、須江田くんは来た時よりはずっと晴れやかな顔で帰って行った。
彼としては、目的以上の結果を得られたのだから当然だ。
けれど、その場に一人残された悠里は……。
まだ震えている手をどうすることも出来ず、くるっと踵を返すと、近くの用具入れによろよろと歩いて行った。
そして、やっと鍬を手にすることが出来た。
(ああ、この重さだわ)
ジョーロでは心もとなかった手応えがある。
そしてその鍬を持って、また畑に戻った悠里は、祖母から決してしてはいけないと言われていることをやってしまった。
それは鍬を頭上高く振り上げること。
振り上げたまま、彼女にしては珍しい大声を上げた。
「いつでも暇なわけないじゃん。わたしだって、やることいっぱいあるんだよ!」
叫ぶと同時に、鍬を振り下ろす。
ドンと鈍い音を立てて鍬が土に突き刺さった。
その途端、鍬の刺さった辺りが眩しく光った。
「えっ、何!?」
『ここほれわんわん』でもあるまいし、何光っちゃんてんの!?
(まさか、ばあちゃんの隠し財産?)とおののいた時、より強い光が地面から放たれたのだ。
その光は瞬時に悠里を包み込んだ。
そして……。
光が消えた時。
そこには悠里の姿も彼女が握っていた鍬もなくなっていた……。