名前
ようやっと泣き止んだ少年は、ゆっくりと顔を上げると、隣に座っている少女の顔を見た。パッと見、年は若く見える。
少女の外見は、銀色の髪は美しく輝き、白い肌にはシミ一つない。唇は紅く蠱惑的に潤い、何より目を引くのは、深紅に染まった瞳だ。血よりも深く濃いそれは、見ているだけで吸い込まれてしまいそうである。
自分の居た世界では決して見る事のないその色に、目が釘付けになる。
「落ち着いた?」
少女に見惚れていた少年は、慌てたように小さく頷く。声さえも少女に相応しい透明感のある涼やかな声音だ。
「貴方、家の前で倒れたのよ?体は大丈夫?」
「そうだったんですか。介抱して下さりありがとうございます。体の方は――」
全てを言い切る前に、グゥという腹の虫が鳴り、一旦話は中座されてしまった。少年が顔を真っ赤にして口ごもっていると、少女は笑いながら少年を台所場の卓に案内する。
「とりあえず、先にご飯にしましょう…話は食べながら聞かせてね」
少女の言葉に少年は小さく頷くしかなかった。
案内された卓の上にはパン、野草のサラダ、スープや炙り肉、果物が並べられていた。
「貴方、男の子だから沢山食べるかと思って用意したんだよ」
笑顔で進める少女に礼を言ってから少年は料理に口をつける。自分の国の味とは違って、素朴な素材その物の味がした。
あまりに綺麗な食べ方をする少年に、少女はそれを見つめるしかなかった。
『さっきも丁寧な言葉使いだったし、中流か上流階級のお坊っちゃまなのかも…』
庶民階級の人間は、基本礼儀など無いに等しい。学舎で学問を学ぶ事のできない更に下層階級になればなるほど、言葉使いも粗野になっていくし、態度も礼儀もあったものではない。
だが、少年は見た目の雰囲気、着る物は見た事もない装束だが、高級感の溢れる素材などで判断すると、そう言った人々とは違って見える。
理由ありな貴族階級のお坊っちゃま――。それが少女の中での少年の印象だった。
「私の名前はアルティミシアよ。貴方の名前も教えてくれる?」
「僕…は――」
ちぎっていたパンを見つめながら、少年は黙ってしまう。
『真実を伝えていいのだろうか…』
自分自身ですら、今の状況を把握できていないのに、命の恩人とは言え見知らぬ人間に名前を明かしても大丈夫なのか。万が一、名前を名乗ってそれが原因で少女にも迷惑をかけてしまったら。
「分からない」
ひきつるような声で答えた。
「どういう事?」
「何も…覚えていないんだ…何も」
「記憶…喪失ってやつ?」
驚愕の表情でこちらを見つめる少女に心の中で詫びながら、少年は嘘をついていた。
本当は名前を覚えている。
住んでいた世界の住所も。
家族構成から友人の名前、学校の事やそれ以外の全てを覚えている。
だが、それを知られてはいけない。
直感だ。だからこそ、咄嗟に嘘を吐いた。
決して知られてはいけない。
知られたら、あいつらに捕まり殺されてしまうから。
生きる為に少年は記憶喪失の振りをした。
「それは困ったなぁ…名前がないと不便よね」
少女、アルティミシアは首を傾げる。
「アル…えっとアル…」
「アルティミシア」
名前を覚えられなかった少年に、アルティミシアは少し憮然としながら訂正する。
「アルティミシアさんが決めて下さい」
「私が?」
「はい。僕を助けて下さったのはアルティミシアさんです。だから貴女に名前を付けて頂きたいです」
「……」
少年は真剣な顔だ。本心からそう願っているのだろう。アルティミシアは軽く溜め息を吐く。
「―女――名付――親んて…――な子」
「え?」
アルティミシアの声は小さく、少年には断片的にしか聞き取れなかった。
「本当にいいの?」
「はい。お願いします」
「貴方の名前はシュヴァルツ」
「シュヴァルツ?」
「そうよ。シュウよろしくね」
シュウ――その響きにシュウと呼ばれた少年は胸が温かくなる。
それは、父母がくれた名前であり、アルティミシアがくれた名前だから――。