知らない世界
薄暗い森の中、鳥達の鳴き声がする中、ガサガサと草花を掻き分ける音が聞こえる。
「はぁはぁ」
一人の男が息を切らせながら走っていく。男はまだ年若く、少年と言って良い姿をしていた。容姿の方は、髪と目は黒色で、すましていれば女性から好意の眼差しを向けられる程には整っている。だが、今はその表情は険しく、額を流れる汗を拭う事もなく走り続けていた。
「はぁっ…はぁっ」
荒い息づかいでひたすら走り続けるその姿は、一目で何かがあったのだと容易に見てとれる。
「居たか!!」
「いや、こちらには居ない!」
「それ程遠くには行っていないはずだ!探せ!」
遠くから何人かの男達の声が聞こえてくる。それと同時にバサバサと鳥達が飛び去る羽音が聞こえた。
その声に少年は心臓が飛び出るのではないかという程、ドキリとした。
『見つかったら殺される!』
直感が――、いや本能がそう告げる。
逃げろ。
逃げきれ。
捕まったら殺される。
今までよりも心臓の鼓動が早まる。走っていても、早鐘を打つ心臓の音が聞こえてくるようだ。
ふと視界に小さな洞穴が映しだされる。
辺りを警戒しながら走るのを止め、なるべく音を立てないように歩いていく。慎重に、荒かった息を整えながら。
洞穴は巨木の根の部分にできた小さな空洞だった。薄暗い空の光だけを頼りに中を覗くと、人一人位なら身を潜める事ができる大きさだった。
おそるおそる中に入ると、落ち葉が敷き詰められ寒さを感じさせなかった。
『ここに隠れよう。じきに日も暮れる。そうなればあいつらに見つからないだろうし』
落ち葉が敷き詰められていた為、動物の住処かもしれないと考えたが、疲れて動けない少年は諦めてここに隠れる事にした。
少年は着ていた黒い服を脱いで、内側から穴を覆うように隠す。これなら夜の暗闇に紛れる事も可能だし、万が一明かりを頼りに照らされても直ぐには気が付かれないだろう。
『それにしても、あいつらは一体誰なんだ?どうして僕はこんな所にいるんだ…』
先程までずっと走り続けていた為に、体力が限界を迎えていた少年は、考えたい事が沢山あったが、疲労には逆らえず、ゆっくりと瞼を閉じるのだった。
これが夢であればいいのにと願いながら――。
翌日目が覚めても、何も変わってはいなかった。小さな空洞の中で前日身を潜めたままだった。縮こまりながら眠った為に、節々が痛む体をさすりながら空洞から外に出る。
「夢…じゃなかったか、やっぱり」
昨日と変わらない森の景色に溜め息を吐く。
夢だと思いたかった。いや、夢であってほしいと願っていた。
訳も分からないままに見知らぬ場所に、半壊しているであろう廃墟の中に、たった一人で居たのだ。夢だと思わなければ恐怖で泣き叫びそうだ。震える両腕を擦りながら森の中を見渡す。
すると、小さくお腹が鳴った。
「腹…減ったな」
何がどうなっているのかはいまだに理解できないが、それでもお腹は空くらしい。
「とりあえず食べ物探さないと」
脱いでいた黒い服を着て、少年は歩いていく。
昨日、自分を探していた男達の気配はなかったが、いつ現れるとも限らない。一刻も早くどこか身を隠せる人里を探さなければ。何処へ向かえばいいのかも分からず、少年はひたすら森の中を歩き続けていた。
だが、どれだけ進んでも人里はおろか、森の出口すら見つからない。飲まず食わずで丸二日歩き通しだった少年は、その場に座り込む。
もう、限界かもしれない。
「死」という単語が脳裏に浮んだ。
薄々解ってはいた。
ここは自分が以前過ごしていた世界とは違う場所なのだと。自分を探していた男達の姿は自分の居た世界では見た事もない格好だったのだから。いや、極一部の人間はああいう格好をしていたかもしれないが。
ただ、何で自分は違う世界にいて、そして命を狙われているのかも分からないまま、こんな所で死んでしまうのか。そう思うと、悔しさと憤りと惨めさで涙が溢れた。
『死にたくないな』
こんな所で訳も分からないまま死にたくない。少年はふらつきながらも立ち上がると、ゆっくりと歩き始める。
死んでたまるか。
その思いだけを胸に、ひたすら歩き続けた。
◇◇
どれだけ歩いていたのだろう。気力だけで進んでいた少年は、森の中に、一軒の小さな家を見つけた。
その瞬間、疲れも忘れて少年は走り出した。『助かった』その思いだけで走っていた。
家は童話に出てくるような小さくて可愛らしい建物だった。森に不似合いな程に。一瞬、脳裏にヘンゼルとグレーテルの老婆の家を想像して首を振る。今は何でもいいから水と食料が欲しかった。万が一人食い婆だったとしても、体力さえ回復すれば逃げきれる。そう考え、少年は玄関にあたるであろう扉をノックした。
「少々お待ちください」
扉の向こうから小さく返事が返ってくる。それは、紛れもない女の声だった。
「どなた様ですか?」
扉の向こうには、銀色の髪を腰まで下ろした、美しい少女が立っていた。
二人が出会ったこの日から、運命は少しずつ、だが、確実に動き始めた――。