見える人には見える、見えない人には見えないもの
数多くの作品から目に留めていただき、ありがとうございます。
手にしている小瓶が震える。
ゆっくり口元に近付けるが、なかなか唇まで辿り着かない。
ほんの数センチなのに……。
「おやめなさい!」
女性の声が私を止めた。
「そんなことをして、なんになるの?」
叱るような声に私は俯いて唇を噛んだ。
なんにもならないのはわかっている。私がこの毒薬を飲んで死んだところで、あの男の心は少しも痛まないだろう。それでもこの命と引き換えに訴えたかった。
昨夜、ゴードン侯爵家主催のパーティーで、ゴードン侯爵令嬢カレンデュラ様とディッシャー伯爵令息アルフィオの婚約が発表された。
私は耳を疑った。そしてカレンデュラ様の横で微笑む彼の顔を見て激しい眩暈に襲われた。その場で倒れなかったことは褒めてほしい。
あの瞬間、私の貴族令嬢としての未来が終わった。
私はディード子爵家の三女のオルレア、三カ月後に王立学園を卒業予定の三年生、栗色の髪に榛色の瞳の平凡な十八歳だ。実家は貴族としての生活には困らないが裕福でもなく、両親は社交も苦手だったため条件のいい縁談は望めない。だから入学当初はなんとか在学中に自力で婚約者を見つけたいと思っていた。
とは言え、美人でもなく特に優秀でもない、持参金も期待できない子爵家の三女で、なんの旨味もない私に声をかけてくれる令息はいない。友達も当てにならない、自分から積極的に行動する勇気もなく、焦りばかりを募らせて二年が過ぎた。
そしてアッという間に最終学年になり、結婚相手が見つからなければ職業婦人になるしかないと、文官試験を受けるために猛勉強を始めた、そしてこの図書館でアルフィオと出会ったのだった。
焦げ茶の髪に群青の瞳、整った容姿ではあるが派手さはなく地味で真面目な印象の青年だった。彼は伯爵家の三男、継ぐ爵位はなく私と似たような立場だ。だから彼も文官の試験に合格して王宮勤めをするのが目標だと語ってくれた。
私たちは密かに付き合い始めた。お互い婚約者はいないのだから、隠す必要はないと思ったのだが、将来爵位もない自分が婚約者を持つなんて、無責任だと思われたくないので、試験に受かるまで秘密にしたいと言われた。その時、不自然な言い訳に気付くべきだったのだが、恋に浮かれていた私は彼の言葉を疑わなかった。
卒業したら彼と結婚すると思っていた。だから……。
「彼を信じて純潔を捧げたのに弄ばれただけだった。彼は最初から私と結婚するつもりなんかなかったのよ。なんて愚かだったのでしょう、あんな男を信じていたなんて」
「可哀そうに、あなたもだったの」
「えっ?」
私が涙でクチャクチャになった顔を上げた。そして、そこに立っていた女性を見て血の気が引いた。
「ミ、ミラベル様? まさか」
まだ握っていた毒薬の小瓶が手から滑り落ちた。
「亡くなったんじゃ……三日前に」
メロディ男爵令嬢のミラベル様はクラスが違うので接点はなかったが、同じ学年なので面識はあった。そして、彼女が三日前に裏庭で首を吊って亡くなっているところを発見されて大騒ぎになったことも知っていた。
幽霊……?
背筋が凍り付いた。変よね、死のうとしていた人間が幽霊を怖がるなんて。
「あなたはまだマシなほうよ、付き合い浅かったから……、私は入学直後から密かに交際していたから三年近くになるわ、卒業したら結婚する約束をしていたのよ」
「ずっと二股かけられていたってこと?」
「二股だけじゃないみたい、他にも犠牲者がいるようだわ。アイツ、見た目が真面目そうだから、つい信用してしまうのよね」
彼は美男子ではない、派手さも際立つ魅力も特にない真面目な令息に見える。だからこそ疑いを持たなかったのだが、とんだ好色男だったのだ。
「騙された私が愚かだったのよ、私にもう貴族令嬢として価値はない。婚姻前に純潔を失った女がまともな結婚なんかできない。愛人か、年寄りの後妻くらいしか行き場がないわ」
「あなたは確か上級文官の試験に合格して、王宮への出仕が決まっていたじゃない」
「それはアルフィオも文官になると言っていたから、彼が昇進して叙爵するまで支えようと思っていたのよ、それなのに」
彼との結婚を考えていなければ、仕事をして一人で生きていく道も選択肢にあったが、アルフィオと出会って夢を見てしまった。愛する人と幸せになれると思ってしまったのだ。
「知らなかったの? アイツは文官試験に受かるような成績じゃなかったわよ。でも、甘い言葉で惑わせて人を夢中にさせる手管に長けているから、うまくカレンデュラ様を垂らしこんで侯爵家へ婿入りするのよね」
そうだったんだ、すっかり騙されていたのね。試験会場が別だっただけで、受けたと思い込んでいた。
「このまま泣き寝入りなんて嫌! でも、私が訴えたところで侯爵家がまともに取り合ってくれるかどうかわからない、アルフィオだって認めるわけないし私たちが交際ししていた証拠も証人もいない。下手をすれば、言いがかりをつけられたと、私だけじゃなくて実家にも迷惑がかかるかも知れない、だから、命と引き換えに訴えるのよ」
「それでも、もみ消されると思うわよ。カレンデュラ様はすっかりアルフィオの虜になっているもの。横恋慕した頭のおかしい女の戯言にされてしまうわ」
「……それでも、なにもせずに引き下がるなんて悔し過ぎるわ、この先、あの人たちの幸せを見続けるくらいなら」
「その気持ちはわかるわ、私もこのままじゃ済ませられないと思っているのよ、アイツは結婚しても変わらないわ、これ以上犠牲者を出さないために」
「なにをするつもり?」
幽霊なら呪いをかけるとか出来るのだろうか?
「どうしようかしらね」
彼女は青白い光を残して消えた。
幽霊に自害を止められるなんて……。
私は足元に転がっている瓶を見下ろした。中身は床のシミとなっていた。
* * *
あれは夢?
幽霊なんて、土壇場になって死を恐れた私が見た幻覚だったのだろうか?
ベッドに入ったものの、なかなか寝付けないでいると、急に胸元が苦しくなった。なにか重たいモノが乗っかっているような……。
「えっ!」
目を開けるとミラベル様のアップ。
私は驚いて飛び起きた。
ミラベル様はベッドの隅に正座しながら私に縋るような涙目。
「見えるわよね、私のこと」
「え、ええ」
「私の姿が見えないのよ、あの男!」
「えっ?」
「せっかく化けて出たのに、アイツって現実主義者でしょ、幽霊なんてモノを全然信じてないから目の前に出ても全く見えないし、声も聞こえないようなの」
「ハハ…、幽霊の存在なんて、その程度のものなのね」
信じていない人には見えないのだ。と言うことは、私は幽霊の存在を信じているのね。
「私はどうすればいいのよ」
ミラベル様は大げさに泣き崩れた。と言っても幽霊だからデュベを濡らすことはないけれど。
「アルフィオだけじゃなくて、カレンデュラ様もなの、彼女にアイツの本性を教えてあげようと思ったのに! これじゃなんの為に幽霊になって地上に残ったのかわからないじゃない!」
「あきらめてあの世に逝けば?」
「無念を残したままじゃ無理よ!」
「じゃあ、どうすれば……」
「考えはあるの、頼みを聞いてくれる?」
ミラベル様は青白い顔でニッコリ微笑んだ。
* * *
妙な頼み事をされた私は翌日から早速取り掛かった。
大袈裟なものではない。お昼休みにお喋りな令嬢たちにちょっとお話しただけ。
「ねえ、聞きました? 幽霊の話」
「幽霊?」
「ええ、ミラベル様の幽霊が学園内を彷徨っているらしいですわよ」
「ええーっ! そうなのですか?!」
「見た人がいるらしいですわ、虚ろな目でとても恐ろしい形相だったとか」
「まあっ、怖い!」
「どうやら誰かを捜しているようですわ」
「誰を?」
「決まっているじゃありませんか、自殺の原因を作った人ですよ」
「それは誰なんです、学園にいるのですか?」
「学園で彷徨っているのはそう言うことでしょうね」
「その方が誰かは存じませんが、呪われたりするのでしょうか」
「そうですね、近くにいて巻き沿いになったら困りますよね、誰だか特定できないものでしょうか」
噂はたちまち広がった。
みんなこの手の話しは大好きだから……。それにミラベル様も実際に彷徨っているし、もともと見える人には見える。そして噂が拡大すると、今まで幽霊の存在など信じていなかった人も、見えるようになる……かも。
ミラベル様が言うには、アルフィオやカレンデュラ様の耳に幽霊の噂が入って、幽霊を信じるようになれば、きっとミラベル様の姿も見えるようになるし、声も聞こえるはずだと。
* * *
「これだけ先入観を植え付けておけば、きっと私の姿が見えるはずよ」
ミラベル様は人気のない裏庭で私に纏わりついていた。
幽霊に懐かれるのも妙な気分。
「ここでよくアルフィオと待ち合わせしていたのよ。あまり人が来るところじゃないし、誰か来ても、木の影に隠れられるし」
ミラベル様は大きな楠を見上げた。
その木の根元に花束がいくつも供えられていた。
ここで彼女は首を吊ったのか。
「全部嘘だったとわかった今でも、彼と過ごした日々は幸せだった」
ミラベル様は寂しそうに目を伏せた。彼と過ごした三年の歳月を、そう簡単に忘れられないのだろう。絶望して自ら死を選ぶほど愛していたのだろう。
私は違う、彼への気持ちなどもう綺麗さっぱり無くなっている。私の心にあるのは彼への恨み、私が死のうとしたのは、彼に少しでも打撃を与えたかったからだ。ミラベル様の言うように、握りつぶされて無駄になってしまうかも知れない。それでも、傷つけて死に追いやった女ことは忘れられないだろう。
「オルレア」
その時、偶然なのかアルフィオが姿を現した。ミラベル様の死に罪悪感があって、この場所に手を合わせに来たのだろうか?
「君か……」
君? 君たちじゃないと言うことは、まだミラベル様の姿は見えないのだ。私の横で顔を歪めながら、今にも飛び掛かかってぶん殴りそうになっているミラベル様が見えていないのだ。
「なぜなの! あれだけ噂が蔓延しているし、私を見た人はたくさんいるのに!」
肝心の見えてほしい人には未だに見えない。ミラベル様の叫びも当然聞こえない。だからアルフィオは私だけに話を続ける。
「こんなところに僕を呼び出したのは君だったのか」
「えっ?」
呼び出した覚えはないけど。
「どう言うつもりかは知らないけど、君がなにを言ったところで誰も信じないぞ、僕たちが交際していた証拠はなにもないし、大人しく引き下がったほうが身のためだ。そうでなきゃ、君もミラベルのように自殺に追い込まれることになるかも知れないぞ」
「自殺じゃないわ! あなたが首を絞めたのでしょ!」
「えっ?」
ミラベル様の言葉に驚いて、私は思わず振り返った。
「あなた、自殺じゃなかったの?」
「言ってなかったかしら? こいつに殺されたのよ」
「ええーーっ!!」
「殺された後、自殺に偽装されたのよ。だから悔し過ぎて昇天できなかった。この人に自首して罪を償ってほしかったのよ」
ミラベル様の声が聞こえないアルフィオは怪訝な顔をして、
「どこを見て喋ってるんだ? ああ、そうだったのか、ミラベルの幽霊が出るなんて噂を流したのは君だったのか、そんな演技をして……。まさか君たちが繋がっていたなんて、知らなかったよ」
「彼女が死んで幽霊になってから知り合ったのよ、そしてあなたが何股もかけていたことを教えてもらったのよ。そして今、あなたに殺されたことを聞いたわ」
「バカなことを言うな、幽霊なんかいるはずないだろ。これ以上余計なことを口走ってもらっては困るんだ。カレンデュラも今は疑っていないけど、これ以上妙な噂が広まって、調べられると困るからな」
アルフィオの手がいきなり私の首を掴んだ。
「うっ!」
強い力で絞められて逃れられない。
油断した。
私はミラベル様と同じように殺されるの?!
絶望に突き落とされた次の瞬間、フッとアルフィオの手から力が抜けた。
そしてたちまち彼の顔に苦痛が浮かぶ。
「死ね!」
その声はアルフィオの後方から聞こえた、横でオロオロしているミラベル様ではない。
「えっ?」
驚いて声の方を見ると、そこには、
「マ、マリル……」
振り返ったアルフィオは顔面蒼白になりながらガックリ膝をついた。
その腰のあたりには短剣が突き刺さっていた。
マリルと呼ばれた令嬢の手には血が……。
なにが起きたか察した。
私は悲鳴を上げるのも忘れて、ただ呆然と立ち尽くしていた。
* * *
アルフィオの傷は意外と浅かった。
扱い慣れない短剣、非力な令嬢の力では深く刺すことが出来なかった。しかしアルフィオが情けない悲鳴を上げて助けを求めたために人が集まり大騒ぎになった。
マリル様は殺人未遂で逮捕され、抵抗することもなく騎士団に連行された。
彼女は一学年下のソリアーノ男爵令嬢、彼女もまたアルフィオに弄ばれた犠牲者だった。声を上げられない下位貴族の令嬢ばかりを標的にしていたのだ。
その後、マリル様は取り調べに素直に応じているらしい。
そして私は、彼女の罪が少しでも軽くなるように恥を忍んで、マリル様と同様にアルフィオに騙されて弄ばれたことを証言した。
すると事件を知った他の被害者たち、アルフィオに弄ばれた令嬢が勇気を出して何人も名乗りを上げた。私やミラベル様、そしてマリル様のように結婚詐欺的に交際していた者だけではなく、夜会で声をかけられて強引に関係を持つことになった令嬢もいた。どれだけ好色魔だったのよ! みんな見た目が真面目そうで優しかったので油断したと言っていた。
怪我も軽症だったし、刺されても仕方がないような証言も集まったため、マリルの刑はきっと軽くなるだろう。とは言え、貴族令嬢として将来はもう詰んでいる。あんな男の為に犠牲者が出てしまったことをミラベル様は悲しんだ。
「ミラベル様は知っていたの?」
「殺されて幽霊になってから知ったの、生前は完全に騙されていたから、あなたの存在も知らなかったのよ。アルフィオには自首してほしかったし、そして弄ばれていた令嬢たちに、バカなことをしてほしくなかったの」
「でも、マリル様にあなたの声は届かなかった」
「彼女も幽霊を信じない派だったから」
アルフィオ様とカレンデュラ様の婚約は白紙になった。そして、自殺として処理されたミラベル様の件についても再捜査されることに決まった。
遺体を詳しく検死するために墓から出されることになると知り、
「朽ち果てた自分の遺体を見るなんて耐えられないわ! とっととあの世へ逝くわ」
と決心した。
「どうせなら、アルフィオの罪が暴かれるのを見届ければいいのに」
「裁判は開かれるかしら? 白紙になってもアルフィオはゴードン侯爵令嬢の元婚約者、そんな彼が殺人容疑で裁かれるなんて、婿に迎えようとしていた侯爵家の面目丸潰れじゃない。カレンデュラ様を傷つけて、ゴードン侯爵家に恥をかかせたのよ、ただで済むとは思えないわ」
「そうか……これ以上騒ぎが大きくなる前に消されるってことね。まあ、そうなっても自業自得よね」
もう私の胸も痛まなかった。彼がこの先どうなろうと関係ない。
「結局、私はなにも出来なかった。アルフィオに私は見えなかったし恨み言の一つも言えなかった。それにマリル様を止めることも出来なかったわ」
ミラベル様は寂しそうに目を伏せた。
「ただ、あなたの自殺を止めることだけは出来た」
「ええ、止めてもらってよかったわ、ありがとう」
ミラベル様は儚く微笑みながら昇天していった。
……見えなければ、私はあの時、死んでいたかも知れないのだ。今思えばあんな男の為に死ななくて良かった。
ほんと、見える人で良かったと思う。
おしまい
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