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あなたたちから、離れたい

掲載日:2026/09/07

あなたたちから、離れたい


「美咲、今日から三日間、学校が終わったら悠斗くんのところに行って、ご飯を作ってあげてね」


帰宅してすぐ、母にそう言われた。


靴を脱いでいた私は、そのままの姿勢で顔だけを上げた。


「……何の話?」


「悠斗くんのお母さん、明日から出張なんだって。三日も家を空けるから、ご飯が心配だって言うのよ。だから、美咲が作りに行けばいいじゃないって」


母は夕食の支度をしながら、今日の献立でも伝えるような調子で言った。


私は一度も頼まれていない。


それどころか、今初めて聞いた。


「行かないよ」


「え?」


「だから、行かない。本人が自分でどうにかすればいいでしょ」


悠斗は私と同じ高校三年生だ。料理ができなくても、弁当を買うことくらいできる。コンビニだってスーパーだって近所にある。


母は包丁を止め、困ったように笑った。


「三日くらいいいじゃない。幼馴染なんだし」


「幼馴染だったら、なんで私がご飯を作らなきゃいけないの?」


「そんな言い方しなくても」


リビングで参考書を広げていた弟が顔を上げた。


「俺も意味わかんない。なんで姉ちゃんが行くの? 食事くらい自分でどうにかできるでしょ」


「ほら、あんたは口を出さないの」


「だって姉ちゃん受験生じゃん。あいつも受験生だけど」


「だからこそよ。お互い大変な時期なんだから助け合えばいいでしょう?」


助け合う。


便利な言葉だと思う。


私が悠斗に何かをしてもらった記憶はまったくないのに、私が何かをする時だけ、母はよくその言葉を使う。


「嫌だって言ってるんだけど」


「もう。そんなこと言わないで。将来のためにもなるでしょ?」


「何の将来?」


母は待っていましたとばかりに笑った。


「ほら! もしかしたら悠斗くんと結婚するかもだしー!」


「は? ありえないんだけど」


反射的に出た言葉だった。


弟が「だよな」と小さく呟く。


けれど母は、私の返事を拒絶とは受け取らなかった。


「またまた、照れちゃってー」


私は何も言わなかった。


言っても無駄だと知っていたからだ。


昔から、母は私の「嫌」をそのまま受け取らない。


嫌いと言えば、照れている。


怖いと言えば、考えすぎ。


やめてほしいと言えば、悪気はない。


私の言葉は、母のところへ届くまでに、いつも母にとって都合のいい意味へ変換される。


「とにかく、私は行かないから」


それだけ言って、自分の部屋へ向かった。


背後で母が「困った子ねえ」と言った。


どちらが。


口に出す代わりに、階段を上った。





翌朝には、断るつもりだった。


母が勝手に引き受けたのだから、母が断ればいい。もし自分で言えと言われたら、悠斗のお母さんに直接謝ろう。


そう決めて家を出たのに、こういう時に限って会う。


「あ、おはよう!」


角を曲がったところで声をかけられた。


悠斗のお母さんだった。


母とは学生時代からの親友で、今も頻繁に互いの家を行き来している。家が近いこともあって、私も小さいころからよく知っている。


「おはようございます」


「聞いたよー。ご飯作りに来てくれるんだって? ごめんね、受験で忙しいのに。助かるわ」


笑顔で両手を合わせられ、言葉に詰まった。


「あ……」


「悠斗も喜ぶと思う。冷蔵庫の中、好きに使っていいからね」


「はい……」


返事をしてしまった。


別れてから、自己嫌悪で足取りが重くなる。


あそこで「聞いてません」と言えばよかった。


「私は引き受けていません」と言えば、それで済んだ。


けれど、何も知らずに礼を言ってくる大人を前にすると、中学生のころから染みついた遠慮が先に立ってしまう。


そして、こうなることまで母は分かっていたのではないかと思う。


私が断る前に相手へ話してしまえば、断りづらくなる。


母がそこまで計算しているのかは分からない。


たぶん、していない。


母はもっと単純に、自分がいいと思ったことは私も最終的には受け入れると思っている。


それが余計に厄介だった。



放課後、私はスーパーに寄ってから悠斗の家へ向かった。


合鍵は預かっていない。インターホンを押すと、しばらくして悠斗が出てきた。


「遅くない?」


開口一番、それだった。


「スーパー寄ってたから」


「母さんから聞いた。三日間来るんだろ?」


「おばさんに頼まれたから」


正確には頼まれてすらいない。


母同士で勝手に決まっただけだ。


けれど説明する気にはならなかった。


「何作るの?」


「冷蔵庫見てから決める」


「俺、魚嫌いだから」


「知ってる」


「あとピーマンも」


「それも知ってる」


「じゃ、よろしく」


悠斗は当然のようにリビングへ戻った。


ありがとう、はなかった。


別に感謝されたくて来たわけではない。それでも腹は立つ。


台所に立ちながら、私は小学生のころのことを思い出した。


両家で公園へ行った日、親たちから少し離れたところで、悠斗に背中を押された。


転んで膝を擦りむいた私に、悠斗は「どんくさ」と笑った。


母に言うと、


「遊んでてぶつかっただけじゃないの?」


と言われた。


別の日には、腕を強くつねられた。


その時は弟が見ていた。


弟が「悠斗が姉ちゃんつねった」と言ってくれたのに、母は悠斗本人から「ふざけてただけ」と聞くと、最後には「男の子って加減が分からないから」とまとめた。


父だけは違った。


私の腕に残った跡を見て、悠斗の家にも話をした。母にも、「娘が嫌だったと言っているなら、まずそこを聞け」と何度も言った。


それでも母の中では、悠斗はずっと「ちょっとやんちゃだけどいい子」のままだった。


外では本当にいい子なのだ。


先生には礼儀正しく、近所の人にも愛想がいい。


困っている人がいれば、人目のあるところでは進んで手伝う。


だから、私が嫌がれば嫌がるほど、母には私のほうが意地を張っているように見えるらしい。


「なあ」


リビングから声が飛んできた。


「何?」


「大学のオリエンテーションって、四月の最初だよな」


包丁を動かしていた手を止める。


「大学によるんじゃない?」


「まあ、そうか。俺ら同じとこだし、入学式も一緒に行けばよくね?」


私はニンジンを切る作業に戻った。


「まだ受かってないでしょ」


「受かるだろ。お前も判定悪くないって言ってたじゃん」


それを言ったのは母だ。


私が母に伝えている大学。


悠斗が第一志望にしている大学。


そして、私が受験するつもりのない大学。


「一人暮らしするなら近いところにしろよ。俺もその辺で探すから」


「なんで?」


思わず聞き返した。


悠斗が台所を覗き込む。


「なんでって、近いほうが楽じゃん」


「何が?」


「いろいろ」


本人にも説明できないらしい。


それでも、私が大学でもそばにいることだけは疑っていない。


昔からそうだった。


同じ小学校。


同じ中学校。


そして、同じ高校。


だから大学も同じで、その先もずっと続くと思っている。


母も同じだ。


二人とも、私がそこからいなくなる可能性を考えていない。


「焦げてる」


悠斗に言われて、慌ててフライパンへ目を戻した。


「焦げてない」


少し焼き色が濃くなっただけだ。


私は火を弱めた。


あと数か月。


そう思えば、この三日くらいは耐えられる。


料理が並んだ頃、悠斗がテーブルに着いた。皿を置こうとした私の手首を、悠斗が不意に掴んだ。


「俺が困ってる時くらい、ちゃんと来てくれるんだ」


笑いながら言うわりに、指の力は強かった。振りほどこうとすると、さらに力がこもる。


「痛いんだけど」


「大袈裟」


悠斗はすぐに手を離し、何事もなかったような顔でフォークを手に取った。


赤くなった手首の跡を、私は袖の中に隠した。


今度こそ、私はいなくなる。





高校を選ぶ時にも、私は一度逃げようとした。


中学三年生だった私は、電車で四十分ほどのところにある女子校を志望していた。


特別にそこでしか学べないものがあったわけではない。


女子校なら、少なくとも悠斗はいない。


それだけで十分だった。


成績は足りていた。


学校説明会にも行った。校舎の雰囲気も気に入ったし、通学だって無理な距離ではなかった。


だから三者面談で、私は担任にその学校を第一志望として伝えた。


「今の成績なら十分狙えると思いますよ」


担任がそう言ってくれた時、私は嬉しかった。


その横で、母だけが微妙な顔をした。


「でも先生、わざわざそんな遠いところまで行かなくてもいいと思うんです」


「お母さん」


「近くの高校も十分いい学校でしょう? お友達もたくさん受けるみたいですし」


私は友達がどこを受けるかで高校を決めたかったわけではない。


「私はここがいいって言ったよね」


「分かってるわよ。でも三年間通うのよ? 毎日のことなんだから、ちゃんと現実的に考えないと」


「通えるよ。説明会にも一人で行けたし」


「一回行くのと毎日通うのは違うでしょう?」


担任は困ったように私と母を見比べていた。


母の言っていることは、一つ一つを取り出せばおかしくない。


通学時間は短いほうが楽だ。


近所の高校にも問題はない。


知っている同級生が多いことを安心材料にする人もいるだろう。


けれど、私が女子校を選びたい理由は、そうではない。


「それに悠斗くんも近くの高校を受けるって言ってたじゃない。小さいころから一緒なんだから、知ってる子がいるほうが安心よ」


「私は一緒が嫌なの」


面談室で、私ははっきり言った。


母の笑顔が固まった。


「またそんなこと言って」


「前にも言ったでしょ」


「先生の前でそういう言い方しないの。悠斗くんに失礼でしょう?」


どうして、そこにいない悠斗への失礼を気にして、目の前にいる私の嫌だという言葉は気にしないのだろう。


担任が事情を尋ねようとしたけれど、母は先に話した。


「昔からちょっと喧嘩したりしてるんです。幼馴染だから遠慮がないというか。この子、昔のことを結構気にするところがあって」


「昔のことじゃない」


「はいはい。それは家で話しましょうね」


面談はそれで終わった。


家でも話した。


一度ではない。


父も私の希望を支持してくれた。


「本人が行きたい学校を受けさせればいいだろう」


父がそう言うたびに、母は「でも」「だって」と理由を増やした。


遠い。


朝が早くなる。


交通費がかかる。


近所の高校にも十分な進学実績がある。


友達がいない環境で大丈夫なのか。


そして最後には必ず、


「悠斗くんと同じ高校なら安心なのに」


がついた。


願書を破られたわけではない。


勝手に志望校を書き換えられたわけでもない。


最終的に近所の高校を受験すると決めたのは、私自身だった。


ただ、疲れたのだ。


自分の希望を口にするたび、母を説得しなければならないことに。


「嫌だから離れたい」という気持ちを、正当な理由として認めてもらえないことに。


十五歳の私は、最後には折れた。


そして入学式の日。


校門の前で悠斗を見つけた母は、本当に嬉しそうに言った。


「よかったね。高校でも一緒で」


私はその時に決めた。


次は言わない。


本当に行きたい場所は、決まるまで母には教えない。





「で、こっちが第一志望の出願日程」


父がスマートフォンの画面をこちらへ向けた。


土曜日の昼過ぎ。


家から二駅離れたファミリーレストランの隅で、私と父と弟はテーブルを囲んでいた。


家で話さないのは、母に聞かれないためだ。


最初は少し大げさな気もした。


でも、母と悠斗のお母さんは何でも話す。


私が女子校を希望していたことだって、いつの間にか悠斗のお母さんへ伝わっていた。


大学について同じ失敗をするつもりはない。


「共通テストの結果次第で変更する可能性はあるけど、今のところはここで行きたい」


「先生は?」


「この前の面談では問題ないって」


弟がポテトをつまみながら口を挟んだ。


「母さん、三者面談あったのまだ知らないの?」


「たぶん」


「学校からの紙、見せてないからね」


進路関係のプリントは、私が受け取って父に渡した。


高校生にもなれば、学校からの連絡がすべて母親を経由するわけではない。必要なものは自分で管理できる。


父は資料を確認してから頷いた。


「受験料の振り込みも、出願も、一緒に確認しよう」


「うん」


「学費のことは気にするな。ちゃんと父さんが出す」


「でも、一人暮らしになったら結構かかるでしょ。大学入ったらバイトするよ。自分のものくらいは自分で――」


「それは受かってから考えればいい」


父が私の言葉を遮った。


強い言い方ではなかった。


「無理して働く必要はない。ただ、やってみたいなら止めない。まずは受験だ」


「……うん」


父は私に「こうしろ」とは言わない。


意見は言う。


心配もする。


けれど最後には、私が決めるものとして話をする。


それだけのことが、母と話す時にはどうしてあんなに難しいのだろう。


弟がポテトの最後の一本を取った。


「俺もそっち方面にしようかな」


「大学?」


「まだ分かんないけど。来年だし」


「自分の行きたいところにしなよ」


「分かってるって。姉ちゃんみたいに逃げる必要ないし」


悪気のない言葉だった。


私は少し考えてから笑った。


「そうだね」


父がスマートフォンを置いて、静かに言った。


「父さんも、いずれお前のいる方に転属願いを出すつもりだ」


「え?」


驚いて父を見た。


「今すぐにってわけじゃない。何年かかるかも分からない。ただ、可能性は探っておきたい」


「お母さんは?」


尋ねると、父は少し間を置いてから答えた。


「連れていくつもりはない」


その一言で、意味が分かった。


「それって……」


「いずれ、離婚するつもりだ。今はまだ、母さんには言うな」


弟は驚いた様子もなく、ポテトの最後の一本をつまんでいた。


「知ってたの?」


「なんとなく」


父は淡々と続けた。


「悠斗くんの家との付き合いを、母さんはやめるつもりがない。お前たちがいなくなっても、あの家との縁だけは大事にする。それなら、俺たちだけでも先に動くしかない」


重い話のはずなのに、父の声はいつもと変わらなかった。


「今すぐ何かが変わるわけじゃない。ただ、知っておいてほしかった」


「じゃあ、いつ動くの」


私が聞くと、父はちらりと弟を見てから答えた。


「来年、こいつの進学先が決まってからだ。二人ともこっちを離れてから、まとめて動く」


弟が「了解」とだけ言った。


私は何と言えばいいのか分からなかった。


母を嫌いになりきれないのと同じように、両親が別れることを、素直に喜べもしなかった。


逃げる。


確かにそうなのだと思う。


でも、逃げることが悪いとはもう思っていない。


嫌な場所から離れるために進路を選んでもいい。


少なくとも、誰かと一緒にいるためだけに進路を決めるより、私にはずっと大事な理由だった。





母が三者面談のことを知ったのは、それから一週間ほど後だった。


夕食の最中、母が思い出したように言った。


「そういえば今日、悠斗くんのお母さんから聞いたんだけど、三者面談あったんだって?」


来た。


私は味噌汁を一口飲んでから答えた。


「あったよ」


「え? お母さん、聞いてないわよ」


「お父さんに来てもらったから問題ないよ」


母が父を見る。


父は普通にご飯を食べていた。


「あなた、行ったの?」


「ああ」


「言ってくれれば私が行ったのに」


「俺が行ったから問題ないだろ」


「そういうことじゃなくて」


母は不満そうだった。


私は黙って箸を動かした。


中学の時なら、ここで罪悪感を覚えていたと思う。


母を仲間外れにしたような気がして、何か言い訳を探しただろう。


今は違う。


母を進路の話し合いから外したのには理由がある。


一度、参加させて失敗した。


それだけだ。


「志望校の話もしたの?」


「したよ」


「悠斗くんと同じところで大丈夫そう?」


母が尋ねた。


私は一瞬だけ父を見た。


父は何も言わない。


私が答えるのを待っている。


「うん。大丈夫」


嘘をついた。


胸は痛まなかった。


正確には、母が知っている範囲では嘘ではない。母に見せている模試の結果なら、その大学は十分に狙える。


けれど私はそこへ願書を出さない。


「よかった。悠斗くんのお母さんも喜んでたわよ。大学まで一緒なんてすごいわよねえ」


弟が露骨に嫌そうな顔をして、父に睨まれていた。


私は笑わなかった。


ただ、ご飯を食べた。





冬になった。


願書は父と二人で確認した。


必要書類も、受験料も、受験会場までの交通手段も。


一つずつ確認するたびに、妙な緊張があった。


書類に不備があったらどうしよう。


何かを忘れていたら。


そんな普通の受験生らしい不安に混じって、別の不安もあった。


本当に出せるのだろうか。


本当に行けるのだろうか。


また最後に何かが起きて、私はここに残ることになるのではないか。


出願を終えた夜、私は父に聞いた。


「……ちゃんと出せたよね?」


父は少し驚いたあと、すぐに頷いた。


「ああ。一緒に確認しただろ」


「うん」


「今度は大丈夫だ」


その言葉に、私は黙って頷いた。


高校受験の時、父は私の味方をしてくれた。


それでも私は母との言い争いに疲れて、自分から諦めた。


父はそのことを今でも気にしているのかもしれない。


でも、あの時のことまで父の責任にしたくはなかった。


今回は私も諦めない。


そのために、ここまで準備したのだから。



試験当日。


父には「頑張ってこい」と言われ、弟には「土産よろしく」と言われた。


母には、今日が共通テストの日だとだけ伝えてあった。


会場は自宅の地域で割り振られるものなので、悠斗も同じ会場になるはずだった。


「頑張ってきなさいね」


見送られて家を出た。共通テストを受けるだけなら、どの大学を第一志望にしているかまでは分からない。今日だけは、母に嘘をつく必要がなかった。


罪悪感がまったくないと言えば嘘になる。


母は私の母親だ。


嫌いになりきれない。


楽しかった思い出だってあるし、風邪をひけば看病してくれた。誕生日には私の好きなケーキを買ってくれたし、学校行事にも来てくれた。


だからこそ、ずっと期待していた。


今度こそ私の話を聞いてくれるかもしれない。


今度こそ「嫌だったね」と言ってくれるかもしれない。


でも、期待して、話して、否定されることに疲れた。


母が悪い人かどうかを決めなくてもいい。


母を嫌いにならなくてもいい。


ただ、私の進路を母に預けない。


それだけは決めた。



共通テストの自己採点結果は、第一志望を変える必要のない点数だった。


個別試験の日程は、大学ごとに違う。


本当の試験日について、私は母に何も言わなかった。


始発に近い電車で家を出て、日付が変わる前に帰ってきた。


数日後、「悠斗くんと同じ大学、もう試験終わった?」と母に聞かれて、私は「うん、先週」とだけ答えた。


本当の受験会場は、母が思っている場所とは違う駅の、違う大学だった。


母は特に疑わなかった。


日程くらい、いちいち聞かれなければ気づかれない。





合格発表の日、私は自分の部屋で何度も受験番号を確認した。


あった。


見間違いかと思って、画面を閉じて、もう一度開いた。


やっぱりあった。


「……受かった」


声に出した途端、力が抜けた。


嬉しい。


もちろん嬉しい。


でも最初に浮かんだのは、大学の講義でも、一人暮らしでもなかった。


離れられる。


その言葉だった。


悠斗から。


母が勝手に決める「悠斗と一緒の未来」から。


私はスマートフォンを握ったまま、しばらく机に突っ伏した。


泣くつもりはなかったのに、少しだけ泣いた。


最初に父へ連絡した。


次に弟。


父からはすぐに「おめでとう」と返ってきた。


弟からは、


『よっしゃ』

『母さんには?』


と二通続けて届いた。


私は、


『まだ』


と返した。



母には、まだ言わないでおこうと決めていた。


リビングに戻ると、母がテレビを見ながら言った。


「そういえば、今日じゃなかった? 合格発表。悠斗くんのお母さんが、今日発表があるはずだって言ってたけど」


「……」


「どうだった?」


「まだ結果見てない」


嘘をついた。


胸は痛まなかった。


もう何度も嘘をついてきたせいか、これくらいでは何も感じなくなっていた。


翌日、母にもう一度「どうだった?」と聞かれて、私は「受かったよ」と答えた。


母が思い浮かべている大学は、悠斗と同じ、私が受験さえしていない大学だった。


「良かったじゃない! 悠斗くんも受かったって! 二人とも春から――」


「うん」


短く答えた。


否定はしない。訂正もしない。


ただ、本当のことは言わない。


それだけを、卒業式の日まで続けるつもりだった。





卒業式の日、母は朝からずっと機嫌がよかった。


「大学でも、悠斗くんと仲良くね」


そう言って、校門の前で写真を撮ろうとした。


悠斗のお母さんも一緒だった。


「二人とも同じ大学だなんて、本当に嬉しいわ」


私は曖昧に笑って、隣に並んだ。


シャッター音が鳴る。


母の中では、まだ何も終わっていない。


私だけが、その先を知っていた。


悠斗のことで、母から謝られたことは一度もない。


私も求めていない。


母がこれから何を考え、どうするのかは母の問題だ。


私は私の準備で忙しかった。


新居の契約。


家具。


家電。


大学から届く書類。


大学名の入った封筒は、母より先にポストを見て抜き取った。学校からのプリントと同じだ。見せなければ、それだけで存在しないことになる。


父と一緒に必要なものを確認し、弟には「それ絶対いらない」と余計な買い物を止められた。


転属願いも、離婚も、本当に動き出すのは来年、弟が同じ方面への進学を決めてからだと父は言っていた。


それまでは、あのファミレスで聞いた話のままだ。


「今は、お前のことだけ考えろ」


そう言われるたびに、私は頷くしかなかった。



引っ越しの日は、母が悠斗のお母さんと出かける予定の日に合わせた。


一か月ほど前、母が「来月、悠斗くんのお母さんと日帰り温泉に行くの。朝早く出て夜まで帰らないから」と話していたのを覚えていて、父がその日に合わせて引っ越し業者を予約した。


当日の朝、母は鏡の前で身支度をしていた。


「じゃあ、行ってくるわね」


「うん」


「夜まで帰らないから、晩ごはんは適当に済ませておいてね」


「分かった。ゆっくりしてきて」


母は少し驚いたように笑った。


「あら、優しいじゃない」


「……いってらっしゃい」


母は機嫌よく出かけていった。


玄関の扉が閉まる音を確認してから、私は部屋に戻って段ボールを運び出した。


見送りの言葉も、涙も、何もいらなかった。


父が荷物を車へ運び、弟がその後を追う。


私も最後の箱を抱えて家を出た。


振り返っても、そこには誰もいなかった。


それでいいと思った。


今ここで全部を明かさなくてもいい。


母がいつまで気づかずにいられるのかは、母自身の問題だ。



新しい街に着いたのは午後だった。


父と弟は引っ越しを手伝って、その日のうちに帰った。


二人を駅まで見送ったあと、私は一人で大学まで歩いてみた。


まだ入学式前で、構内には在学生らしい人がちらほらいるだけだった。


知らない建物。


知らない道。


知らない人ばかり。


知っている人がいないことを、中学生の私は不安だと言われた。


でも今は、それが嬉しかった。


ここには、私を悠斗の幼馴染として知っている人はいない。


母が勝手に決めた将来を知っている人もいない。


私は誰かの隣にいることを前提にされていない。


これから授業を選ぶ。


アルバイトも探したい。


友達だってできるかもしれない。


恋愛は――まだ分からない。


誰かを好きになるのかもしれないし、ならないのかもしれない。


それでいい。


母は以前、笑いながら言った。


もしかしたら悠斗くんと結婚するかも、と。


そんな未来は、もう誰にも決めさせない。


誰と付き合うのか。


誰と結婚するのか。


どこで暮らすのか。


何を学ぶのか。


全部、自分で選べばいい。


私は大学の正門を見上げた。


嘘は、もう長くは続かない。


悠斗がオリエンテーションに現れて、そこに私がいないと知る日は、もうすぐそこまで来ている。


悠斗はきっと、まず自分の母親に話すだろう。


そして悠斗のお母さんは、きっとすぐに母へ伝える。


そこから先は、時間の問題だった。


それでも今は、これでよかった。


私は新しい部屋へ戻る道を歩き出した。


もうすぐ、私の大学生活が始まる。


今度こそ、私が選んだ場所で。

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