「夫人にはなれぬ」と縁を切られた私は、叙爵状で立場を得て、最後は元婚約者に見上げられます
「この縁は、今日限りとする」
オズワルド・オルブライト伯爵の声が落ちると、アデラの前に置かれていた茶器が鳴った。縁者の一人が目で命じ、給仕がまだ半分ほど残っていた茶を盆へ載せたのだ。
誰の前の茶器も動いていない。白い卓布の上で、アデラのいた場所だけが先に片づいた。
「伯爵閣下。理由を伺ってもよろしゅうございますか」
「あなたの将来を思ってのことだ。ディーンの妻としてこの家を預かるには、もっと家中の考えに馴染む者がふさわしい」
アデラが次の言葉を選ぶあいだにも、伯爵は指を上げた。壁際に控えていた従僕が、彼女の椅子の背へ手をかける。
「無論、フェイン家にはこちらから穏便に伝える。あなたに落ち度があったという形にはしない。今後の身の振り方まで悪くなるような真似は、私も望んでいない」
「今後、と申しますと」
「婚約者でなくなれば、あなたが水路や備蓄へ口を出す理由もなくなる。あれは将来の伯爵夫人として任せていたことだ。この家の名がなければ続けられまい」
扉までの道には、伯爵へ同調する縁者たちの椅子が並んでいた。誰も退けず、誰もアデラを見なかった。伯爵は自分の椅子に深く腰を預けたまま、まだ返していない問いまで片づけていく。
「数年も費やしたことを惜しく思うのは分かる。しかし、それもあなたが夫人となるための備えだったのだ。縁がなくなった以上、同じようには扱えない」
隣席のディーンは、磨かれた靴の爪先を見ていた。アデラが彼の名を呼ぶと、ようやく顔を上げたが、目は彼女の肩口に留まった。
「ディーン様も、同じお考えでいらっしゃいますの」
「父の決定には逆らえない」
それだけなら、まだ答えの形をしていた。だがディーンは父の横顔を見て、その口元が緩んだのを確かめてから続けた。
「君がしたことも、オルブライトの後ろ盾があったからできたことだ。ひとりで成した仕事のように考えないほうがいい。これから別の縁を探すにしても、そのほうが君のためだろう」
伯爵が一度、満足そうに頷いた。ディーンも同じ角度で頷く。
アデラの膝には、持参した仕事の控えがあった。水路の傷み、石材の搬入数、冬までに薪を運べる荷車の数。青い綴じ糸の間には、泥のついた指でめくられた頁も混じっている。
「では、今季分の引き継ぎについて——」
「それはこちらで決める」
伯爵は言葉を重ね、従僕へ椅子を下げるよう顎を振った。アデラが立つより先に椅子が引かれ、その脚が床を擦った。
「もうあなたが案じることではない。身軽になったと思えばよいのだ」
身軽という言葉は便利だった。積み上げた年月も、約束された座も、卓上の茶器と同じ手つきで盆へ移せる。
アデラは控えを開いた。最後の頁には、雪解け水が増す前に補修すべき水門の順番が、自分の筆跡で並んでいる。その末尾を指でひとなでし、表紙を閉じた。
「承知いたしました」
「分かってくれればいい。あなたはまだ若い。誰かの妻となる道まで閉ざされたわけではないのだから」
ディーンはそこで初めてアデラをまっすぐ見た。別れを惜しむ者の顔ではなく、聞き分けた相手を見届ける顔だった。
アデラは控えを胸元に抱え、縁者たちの椅子の間へ足を向けた。最も扉に近い一人が、伯爵の目を確かめてから、ようやく膝を引く。
「わたくしの席は、わたくしが頂きます」
声は控えの表紙に触れ、そこから先へは届かなかった。届かせる必要もなかった。
* * *
水門の下流には、冬を越せないほど細くなった流れが残っていた。婚約が解かれた翌朝、アデラは裾を泥から上げ、古い石組みの前で職人たちが差し出す木札を一枚ずつ確かめた。
オルブライト家からの指示は来なかった。代わりに届いたのは、もうフェイン嬢の判断を仰ぐなという短い伝言だけだった。
「上の水門を先に塞げば、こちらの集落へ水が回りません。先に脇の流れを掘り直してくださいませ」
「ですが、伯爵家からは上流を優先せよと」
「その指示が出たのは、こちらの石が崩れる前でございます。昨日の測り書きはお持ちですか」
職人が差し出した板には、アデラの控えと同じ数字が刻まれていた。彼女は木札を返し、下流側の石を運ぶ荷車だけを残すよう告げた。
「今日のうちに脇の流れを通します。責めを問われましたら、わたくしの名をお出しください」
職人たちは顔を見合わせたあと、鍬を担いだ。誰も伯爵家の紋を求めず、アデラが示した崩れへ向かって足場板を渡していく。
冬支度も止められなかった。薪を多く積んだ倉から均等に配れば、道の遠い家へ届く前に雪が降る。アデラは昨年の積雪日と荷車の往復数を控えから拾い、遠い家から順に運ばせた。
オルブライト家の名で借りていた倉は使わなかった。空いていた納屋を古老たちが開け、足りない縄を職人たちが持ち寄った。ネラはその数を小さな帳面へ書き留め、夜になると青い糸で控えへ綴じ足した。
「お嬢様、こちらは新しい表紙へ替えましょうか」
「いいえ。このままで結構ですわ。泥の跡も、どこで開いたか分かりますもの」
ネラは擦り切れた角へ薄布を当てた。針を引く指はいつもと変わらず、縫い目だけが以前より細かかった。
脇の流れに水が通った日、古老たちから連名の文が届いた。上等とはいえない紙の中央に、飾りのない一文が置かれている。
『どのお立場になられても、私どもは同じようにお仕えします』
アデラは次の荷車の数を口にしかけ、その紙の上で手を止めた。ネラは綴じ針をゆっくり引き、催促をしなかった。
「控えへ綴じますか」
「いいえ。これは、別にしておいてくださいませ」
「かしこまりました」
古老たちの文は、控えと同じ箱へ納められた。ただし青い糸には結ばれず、いつでも取り出せる一番上に置かれた。
水路がつながり、薪の最後の荷車が遠い家へ着くと、王室の役人が現地と数年分の控えを検分した。その後、使いが来た。封書には、アデラ・フェイン本人の出頭を求める文言と、これまでの水路修復および冬支度の功をもって爵位を授ける旨が記されていた。
誰の婚約者としても、誰の代理としても呼ばれてはいない。ネラは封を切った小刀を布で拭き、鞘へ戻した。
叙爵の前夜、アデラは綴じ直された控えを机に置いた。末尾に増えたのは、脇の流れが通った日付と、最後の荷車が戻った時刻である。
彼女はその一行の末尾を指でなで、控えを閉じた。ネラは翌日の衣装を抱え、扉のそばで一礼した。
「青い糸を一本、替えました」
「分かりましたわ。前より強くなりましたもの」
翌日、叙爵状は濃い色の布を張った盆に載せられていた。アデラが進み出ると、王室侍従長は辞令を開き、余分な賛辞を添えずに功の内容を読み上げた。
水路を復旧し、冬季の備えを整え、民の暮らしを保ったこと。その功を認め、下流部の復旧と冬支度を新たな女男爵の裁量に委ねること。
「以上の功により、女男爵アデラ・フェインに叙爵する」
妻となる家の名は、どこにもなかった。
後ろで控えを持っていたネラの指が、青い綴じ糸の端に触れたまま止まった。侍従長が叙爵状を盆から取り上げ、アデラへ差し出すまで、その指は動かなかった。
「お受けください、フェイン女男爵閣下」
「謹んで拝受いたします」
アデラは両手で叙爵状を受け取った。誰かの隣に用意された場所ではなく、呼ばれた名の正面に立ったまま、姿勢を崩さなかった。
* * *
叙爵の報せがオルブライト伯爵家へ届いた日の午後、祝いの文とともに面会の申し出が来た。差出人はオズワルド・オルブライト伯爵であり、文末には、今後の水路と冬支度について旧知の者同士で話したいと添えられていた。
アデラは、公務の日程に空きがある時刻だけを返した。面会の場所として指定されたのは、かつて婚約を解かれたのと同じ部屋だった。
扉の前で従僕がアデラの名を告げる。内側では椅子の脚が一斉に鳴り、扉が開いた時には、伯爵もディーンも、あの日に並んでいた縁者たちも立っていた。
アデラの茶器だけを先に下げさせた縁者は、自分の前の茶へ手を伸ばしかけた姿勢で止まっていた。別の一人は椅子を引きすぎ、背が壁へ当たっている。
オズワルドは卓の向こうに立ち、両手を椅子の背へ置いていた。アデラがまだ着席していないため、彼も腰を下ろせない。
(縁を切れば、あの女に行き場などない——)
伯爵の唇が開き、閉じた。二度目に開いた時、声は以前よりひとつ低く、語尾は細かった。
「フェイン女男爵閣下。ご足労をいただき、恐縮です」
その呼称を聞いてから、アデラは勧められた椅子へ目を向けた。以前の椅子より背が高く、卓の中央に近い位置へ置かれている。
「本日は公務の相談と伺っております。どうぞ、お掛けくださいませ」
アデラが座ると、伯爵は一拍遅れて腰を下ろした。縁者たちも続いたが、衣擦れの音は揃わなかった。
「まずは、このたびの叙爵、まことにめでたく——」
「ご用件を伺いますわ」
「むろんだ。閣下が進められた水路の件について、今後もオルブライト家として協力できることがあればと考えている。何しろ、もとは我が家の管轄で始まった仕事でもある」
アデラはネラから一枚の紙を受け取った。そこには、補修済みの箇所と、今後アデラの裁量で扱う箇所だけが記されている。
「伯爵家の管轄にある上流部は、これまでどおり伯爵閣下にお任せいたします。下流部の復旧と冬支度は、辞令に従い、わたくしが引き受けます」
「線を引かずともよいのではないか。我が家の名があれば、人も動かしやすいだろう」
「すでに動いております」
伯爵の指が、椅子の肘掛けを一度叩いた。だがアデラが視線を上げると、その指はすぐに袖の内へ引かれた。
ディーンが身を乗り出した。縁を切った日には一度も出さなかった手が、今は卓の半ばまで伸びている。
「アデラ、僕からも——」
ネラが控えを置く音がした。ディーンは伸ばした手を引き、咳払いを挟んだ。
「フェイン女男爵閣下。以前から最も近くで、あなたの仕事を支えてきた者として、力になれると思う。君のやり方はよく知っているから」
控えの青い綴じ糸には、ディーンの筆跡が一つもなかった。アデラは表紙を開かず、その上へ指先を置いた。
「本日の相談は、以上でよろしゅうございますか」
「いや、今後の関係についても、いずれ改めて話したい」
伯爵はそう言って立ち上がった。アデラが立ったためであり、見送りの礼を省ける位置ではなかった。
縁者たちも再び立った。扉までの道を塞いでいた椅子は、今度はアデラが歩き出す前に端へ寄せられた。
* * *
アデラに与えられた執務室には、まだ空の棚が多かった。窓際の大机には新しい控えと封蝋が置かれ、壁には水路の流れを示す簡素な図が掛けられている。
最初に持ち込まれたのは、二つの集落から同時に届いた水門修理の願いだった。人手は一方へしか出せず、どちらも雪の前に直したいと書いてある。
担当の者は机の前へ立ち、アデラの指示を待っていた。以前なら伯爵家へ伺いを立て、返事が来るまで何日も木札を積んでいただろう。
「先に、下流の水門へ職人を出してくださいませ」
「下流から、でございますか」
「上流の水門は漏れていますが、閉じることはできます。下流は閉じれば石組みごと崩れます。今夜から水量を半分に落とし、明朝、職人を入れます」
アデラは図の一点を指した。担当の者が身を寄せると、ネラはその手元へ新しい紙を滑らせた。
「薪を運ぶ荷車は一台だけ残し、ほかは石材へ回してください。薪の遅れは、今週のうちに往復を一度増やして戻します。御者にはこちらから日当を加えます」
「承知いたしました、閣下」
担当の者は指示を書き取り、廊下へ出るなり職人と御者へ声をかけた。開いた扉の向こうで靴音が分かれ、一方は水門へ、一方は荷車置き場へ向かっていく。
アデラの判断を載せた紙には、オルブライト家の確認欄がなかった。末尾に記されたのは、女男爵アデラ・フェインの名だけである。
ネラが新しい控えを開き、最初の頁へ日付を書いた。まだ綴じ糸は白く、泥もついていない。
「青い糸にいたしましょうか」
「使い終えるころに決めましょう。どの色が残るか、まだ分かりませんもの」
アデラは箱から古老たちの文を取り出した。連名の文字は整っておらず、端には持ち回って印を押した跡が重なっている。
『どのお立場になられても、私どもは同じようにお仕えします』
彼女はその紙を机の右端に置いた。叙爵状の下でも、古い控えの中でもなく、新しい指示を出す時に目へ入る場所だった。
午後には、水量を落としたとの報告が届いた。夕刻には石材を積んだ荷車が出た。翌朝、下流の水門へ職人が入り、昼までに崩れかけた石組みを外した。
報告はアデラの名で受け取られ、次の指示も同じ名で出ていった。空だった棚には、決定を待つ書類ではなく、動き始めた仕事の控えが一冊ずつ増えた。
* * *
オズワルドとディーンが再び面会を求めたのは、下流の水門が開いた三日後だった。今度の文には公務の用件がなく、両家の今後について内々に話したいとだけ記されていた。
アデラは執務室で二人を迎えた。オズワルドは勧められるまで座らず、ディーンもその横で立っていた。
「お時間をいただき、感謝する。フェイン女男爵閣下」
「用件をお聞かせくださいませ、伯爵閣下」
アデラが椅子を示すと、二人は向かいへ腰を下ろした。ディーンは以前より近い椅子を選びかけ、伯爵に見られて一つ外側へ移った。
「先日は公務の場で、十分に話せなかった。あの婚約についてだ」
「すでに解かれておりますわ」
「それを承知で来た。だが、あの時とは事情が変わった。あなたには爵位があり、我が家との釣り合いにも何ら問題はない」
伯爵は持参した書類を卓上へ置いた。以前アデラに約していた夫人の座を、もう一度用意できるという文言が最初に書かれている。
「一度は行き違いがあったが、元の形へ戻すことはできる。あなたも、長く備えてきた座を無駄にはしたくないだろう」
ディーンが頷いた。父が言葉を切るのを待ってから、今度はアデラの目を正面から見た。
「僕も、やり直したいと思っている。父が決めたことに逆らえなかったのは事実だが、これからは違う。今なら、二人で決め直せる」
「ディーン様は、あの日もお部屋にいらっしゃいましたわね」
「いた。だが、あの時の僕にはどうすることも——」
アデラは机の脇から叙爵状を取り出した。王室の印が見える向きで広げると、ディーンの声が途切れた。
オズワルドは書類へ伸ばしかけた手を、卓の縁で止めた。彼の用意した復縁の文は、叙爵状の下へ入ることもなく、離れた場所に残っている。
「戻すも何も、この叙爵状に記されておりますのは、わたくし自身の名でございますのよ」
伯爵の口元から、先ほどまで整っていた微笑が消えた。ディーンは叙爵状の名を見たあと、アデラの後ろに立つネラへ目を移し、ネラから返事がないまま、視線をアデラへ戻した。
「爵位を得た今だからこそ、両家にとってよい縁になる。あなたの仕事にも、オルブライトの家名は役立つはずだ」
「必要ございません」
「感情で決めることではない。以前の座も、家中での裁量も、こちらは正式に戻すと言っているのだ」
語尾が一度だけ強くなった。廊下で書類を運ぶ靴音が止まり、アデラが顔を上げると、伯爵は喉元を整えて言い直した。
「戻っていただけないだろうか、閣下」
アデラは叙爵状を閉じた。ディーンが椅子から立ち、机の端へ一歩近づく。
「アデラ——閣下。僕は君の仕事を誰より近くで見てきた。あのころのことまで、すべてなくす必要はないだろう」
ネラの手にある古い控えの青い糸が、窓からの光を細く返した。アデラは二人の前に置かれた復縁の文へ手を触れなかった。
「わたくしの席は、わたくしが頂きます」
オズワルドの背が椅子から離れた。もう重ねる言葉が見つからないまま、それでも先に退室することはできず、アデラが立つのを待っている。
「お話は以上でございます」
二人は立ち上がった。ディーンが何かを言いかけたが、伯爵が扉へ向かったため、その後ろへつく。
ネラが扉を開いた。縁を切った日に道を塞いだ家の当主と嫡男は、アデラの執務机へ背を向け、並んで廊下へ出ていった。
二人の持参した復縁の文だけが卓上に残った。ネラはそれを取り上げず、アデラへ目を向けた。
「処分をお願いいたします」
「承知いたしました」
ネラは復縁の文を、返送する書類の盆へ載せた。受領の印も、アデラの署名も与えなかった。
出立の時刻が近づくと、ネラは古い控えと新しい控えを並べ、必要な荷を一つずつ確かめた。最後に青い糸の控えを抱え、アデラの前へ進み出る。
「次の控えも、わたくしに綴じさせてくださいませ」
アデラは古老たちの文を新しい箱へ移した。ネラのための席が荷車に用意されるよう書きつけ、その紙を渡す。
「お願いいたしますわ、ネラ」
ネラは短く一礼し、新しい控えをアデラへ渡してから、古い控えを抱えて扉へ向かった。今度は誰の椅子も、その道を塞いでいない。
アデラは手元の新しい控えを開いた。最後の頁に記された出立準備の一行を確かめ、その末尾をひとなでする。
それを閉じず、最初の頁を開いた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




