第90話 除雪のおわった台所で紡ぐ〜伸子の原稿 3
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第90話 除雪のおわった台所で紡ぐ〜伸子の原稿 3
夜明けすぎ。
ごうっ——と、外で低くうなる音がした。
ベッドから手をのばし、カーテンをわずかに開く。
眩しいライトに、雪が静かに照らし出されていた。
除雪車だ。
雪を押し分ける重い響きが、静かな朝に沈んでいく。
いつもなら、もう一度眠りに戻るところだが、
今日は伸子はそのまま起きた。
――除雪車に起こされるのも、今シーズン最後かもしれない。
昨夜の雪が嘘のように、空はすっかり晴れわたっていた。
休日の朝らしい光が、家の中に静かに広がっていく。
「雪が重くって、汗をかいたよ。」
湿った雪を嘆きながら、新聞を広げる夫と伸子は早々に朝食を済ませ、
また原稿をテーブルに広げる。
しばらくすると約束通り、伸子の次女の未希も孫の凛も来てくれた。
原稿を広げたテーブルの向こう、
キッチンで頰を赤くした凛が少しだけ背伸びして手を洗っている。
いつのまにか、踏み台がいらなくなっていた。
――水が、すぐに出る。あたり前のように。
その何気ない光景に目をとめたとき、
伸子は、テーブルの上にある今書いている原稿の世界へそっと心を戻した。
***
水道工事には、泊まり込みで働く人たちが大勢いました。
農家や下級武士、奉公を終えた若い人たち――
どんなにきつくても、「まあ、こんなものだ」と受け止めて働く時代でした。
自分たちの手で水道が形になっていく。
その実感だけをたよりに、黙々と作業を続けていったのだと思います。
横浜は、港町でした。
まだ陸運よりも海運のほうが主流だった日本で、
横浜村の成功は、大きな意味を持ちました。
横浜の町を訪れた人々は、
その発展した姿を見て、
地元へ戻り、「あの町のようにしよう」と、
横浜のシステムをまねたことでしょう。
おそらく、横浜で作られた日本語のインフラ・マニュアルが、
とても優れていたのだと思います。
そして、そのマニュアルは、次に北海道へととどくのです。
横浜の町の仕組みやインフラ技術は、
日本の他の地域へと広がっていきました。
このことからも、横浜が日本全体にとって「モデル」となった
――その様子が、ありありと伺えます。
その知見はやがて、北海道にも届きました。
パーマー氏の水道インフラのマニュアルは、函館で試されます。
函館では横浜に次いで近代水道が整備され(1889年)、
元町の配水池や送水管が町を潤していったのです。
函館には、そろばんに強い商人の子どもたちが学ぶ寺子屋がありました。
そんな学びも、いかされたのだと思います。
計算に強い土地柄が、新しい技術の導入を後押ししたのかもしれません。
コトン、と音がして、伸子は現実にもどった。
キッチンでは、凛が手を洗い終えて、少し得意そうに振り返っていた。
「凛ちゃん、ひとりで手洗いできて、えらいね」
そう声をかけると、
凛はちょっと肩をすくめて、照れ隠しのように言った。
「えらいっていうか……もう、ふつうにできるよ?」
言葉は小さくても、
その目は、“もう子ども扱いしないで”と言っているようだった。
妙に、凛の姿が愛おしく感じた。
「ばあば。どうしたの?」
凛が不思議そうにのぞき込む。
キッチンの棚に置いてあるタオルを手に取り、
その両手を包みながら、
ほんの一瞬、凛の体温が自分の掌に移るのを感じた。
そのぬくもりが、成長の確かさと、
この子が歩いていく未来の光を
そっと伝えてくるようで――
胸の奥がすこしばかり熱くなった。
凛の小さな手の奥に、
知らない誰かの手が重なって見えた気がした。
タオルの布越しに、
凛の手の温度がゆっくりと戻っていく。
そのぬくもりを感じながら、伸子はふと思った。
伸子は深く息を吸い、そっと原稿に向き直った。
――この子の未来へ、
過去から受け取った“水のバトン”を
ちゃんとつなげて書いていこう。
そんな思いが、静かに胸の中で灯り続けていた。
そして、三人だけの小さな“約束”の打ち合わせが、そっと始まった。
ふと視線を落とした先で、凛が持ってきた日和ハムのロゴの入った青い袋が光を受けていた。
伸子はその袋をのぞきこみ、かすかに微笑んだ。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
どこかで、それぞれの「台所」から、小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。
◇◇◇
お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
◇◆◇
次回予告:『第91話 伸子の原稿 4』
◇◆◇
―― 朧月 澪




