第89話 北広嶋ニコニコ水道会社でのリハーサール〜伸子の原稿 2
『台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO』
第89話 北広嶋市ニコニコ水道会社でのリハーサール〜伸子の原稿2
雨がしとしと降っていた。
三月のこの時期なら、雪かみぞれが相場なのに、
今日は季節をまちがえたような冷たい雨だった。
その雨音が、職場の大きなガラス窓をかすかに震わせている。
いつもの仕事を終えると、伸子は資料室の片隅で、
プロジェクターを使ってひとりリハーサルをするつもりでいた。
「いいよ、ふたりとも。もう先に帰って。
道路、アイスバーンになっちゃうから。
それに……見ていられると、緊張しちゃうし」
そう言うと、亀田課長がふっと笑った。
「縣さん、世界を飛び回ってきて、何そんな小さなこと言ってるんですか」
横でえりちゃんも肩をすくめる。
「ですよね〜」
なんだかんだ言いながらも、ふたりは残ってくれていた。
伸子の発表練習につきあうためだ。
「じゃあ……もう一回、いきます」
胸の奥につかえていた重たいものを、ひとつ吐き出すように深呼吸をする。
ベネチアで置き去りにしてきた自分の声が、ふと胸の中で揺れた。
その声に応えるように、伸子は小さく背筋を伸ばした。
資料室の端。
小さなスクリーンの前で、伸子はプロジェクターのスイッチを押す。
◆ 発表練習
「えっと……ここからが本題なんですけど」
画面が淡い光に満ち、横浜の古地図が映し出される。
「横浜が開港したころ、町の人たちは井戸から水をくんで暮らしていました。
でも、その井戸の水が、あまりよくなかったのです」
海が近く、井戸によってはしょっぱかったり、にごったり。
そんな説明をしながら、伸子はスクリーンをちらりと見上げた。
「さらに、もっとこわいことが起きました。
“コレラ”と呼ばれる、ひどいお腹の病気が広まったのです」
伸子は間を置き、声をわずかに落とした。
「1858年ごろから、日本では何度もコレラが大流行しました。
そして人々は、しだいに気づきます――
“きれいな水がないと、病気が広がってしまう”と」
画面が切り替わり、パーマーさんの似顔絵が映る。
「……私が描きました。あまり似てないです。イメージできるかなって思って」
そういいながら、ちらっと亀田課長の顔をのぞいた。
◆ パーマーさんと水道づくり
「そして、明治になってしばらくしたころ。
横浜に、日本で初めての本格的な水道をつくる計画が生まれました。
これを考えたのが、イギリス人の技師――
ヘンリー・スペンサー・パーマーさんです」
伸子はレーザーポインタを動かしながら続ける。
「関内のなかだけでなく、外にも水道管を通す計画です。
パーマーさんは、海の近くの井戸がダメなら……と考えて、
山の向こうにある“きれいな川”を水の取り場に選びました。
貯水池。
水を運ぶ大きな鉄のパイプ。
水をきれいにする仕組み。
それら全部を組み合わせて、
“未来の横浜にふさわしい水道”をつくろうとしたのです」
◆ 日本人技術者たちの努力
「でも、それを実際に工事するのは日本の技術者たちでした」
スクリーンに、当時の図面の写真が映る。
「図面はすべて、インチ・フィート・ヤード。
一方、日本の職人は尺・寸・間で測るのが普通。
翻訳機もコンピューターもない時代です。
寸法の変換を間違えたら大問題でした」
伸子が続ける。
「だから、みなさん……そろばん、めちゃくちゃ使ったと思います」
横目で見ると、えりちゃんが机の電卓をいじりながらくすっと笑っていた。
「でも、それでも続けたんです。
“きれいな水で、みんなをコレラから守りたい”
その気持ちだけで」
◆ 水道が町にもたらしたもの
「水道ができると、横浜の暮らしは大きく変わりました。
井戸より安全で、いつでもきれいな水が使えるようになった。
だから町の衛生はよくなって、横浜はぐんぐん発展して、
やがて国際的な港町に成長していきます」
スクリーンの光が、静かに資料室を照らす。
「日本の水道は、
パーマーさんの知識、
日本人の努力、
そして“病気から人々を守りたい”という願い。
この三つが合わさって生まれたんです」
光がふっと消え、プロジェクターの熱だけが残る。
「……はい。前半はこんな感じです」
資料室の空気が少しやわらいだ。
亀田課長がマグカップでコーヒーをひと口飲む。
「いいんじゃないか。うん、とてもいい」
えりちゃんが目を細める。
「パーマーさんの似顔絵、なんだか亀田課長に似てません?」
コーヒーの湯気がゆらいで、外の冷たい雨音と混ざり合う。
胸の奥が、じわりとあたたかくなった。
伸子は小さく息をつき、微笑む。
「縣さん、来週、楽しみです」
外に出ると、雨はいつのまにか細かな雪へと変わっていた。
電灯の明かりのなかで、その白さがきらきらと降りしきる。
三人は、駐車場にとめた車のフロントガラスにつもった雪を
スノーブラシでさっと払いながら、
「お疲れさま」と声をかけ合った。
そしてそれぞれの車に乗り込む。
家路へ向かう三つのライトが、
静かに並んで夜道の先へと伸びていった。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。
つづきは――
次話予告:『第90話 除雪のおわった台所で紡ぐ〜伸子の原稿3』
心のスイッチが、またひとつ灯ります。またお会いできます様に。
お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
◇◆◇
―― 朧月 澪




