スマホの夜会 第8夜〜昆布とそろばんの夜
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
スマホの夜会 第8夜〜昆布とそろばんの夜
氷のような空気が、全身を突き抜けた。
今朝、鹿児島空港で浴びた南国の風のせいか、
飛行機の窓から見た景色さえ、胸の奥からさらわれそうだった。
岩水沢の無人駅に降り立った瞬間、指先まで痛みが走る。あわてて、手袋を探した。
頭上から聞こえる、列車の遅れを知らせるアナウンスの雑音。
横浜の百を超える駅とは違い、この岩水沢市にはたった六つしかない駅。
数日ぶりに戻っただけなのに、
この静かなホームが、なぜかひどく愛おしかった。
ホームの隅で息を吐くと、白い息がふわりと空気に溶ける。かつて父が高校時代に通った知覧から川辺の小さな汽車――いまはもう、地図にも記憶にも残らない――のことを思い出す。消えてしまった鉄道の影を胸に、響香はホームの静けさをひとり噛みしめた。
アスファルトは凍りつき、足元でかすかにきしむ音がした。
家に着くと、こゆきが玄関までのそのそ歩いてきて、尻尾を静かに揺らした。思わずつぶやく。「ただいま、こゆき」
「ありがとね」
――その瞬間、羽田から千歳へ向かう飛行機の窓辺で見た“あの夢”が、胸の奥で淡く光を灯した。
真っ先に伸子さんに話そう――そう思った。
けれど、その瞬間に届いたのは、伸子さんからの、妙な絵のLINEだった。
「……なにこれ?」
声に出した途端、部屋の空気がかすかに揺れた。旅の終わりに生まれる静けさが、何かの予兆みたいにふっと形を変えた。札張の冬は、秋よりさらに夜が長い。
チカホのベンチで開いた、ささやかな新年会。
あの日をきっかけに、伸子と私はときどき“飲み歩く”ようになった。
とはいえ、行き先はいつも決まっている。
「ざ。台所」
「ざ、リビング」
「ざ 旧娘部屋」
どれもセルフサービスで、最後はスマホをスピーカーにして話すのが定番。
夜の始まりは、いつも「大丈夫?」のLINEスタンプ。
まるで不良高校生みたいだけど、そんな私たちが好きだった。
こたつのない台所にも、スマホ越しにほんのりぬくもりが伝わる。
ピロン。
LINEの通知音。
「昆布とそろばんの絵が描けないのよ。」
あまりに唐突なメッセージに、思わず吹き出した。
添えられた変なスケッチが、さらに追い打ちをかける。
通話を押す。
「えっ? そろばん? 昆布?」
そこから、今夜の飲み会が始まった。
「報告書を書いてるのよね。子どもたちに分かりやすいように、紙芝居形式にしたくて」
「……で、昆布とそろばん?」
「水道インフラ成功のカギ、ってタイトルにしようと思ってるの」
「それで昆布とそろばん?」
「そう。まあ、あくまで私の考えだけど」
「つまり、世界最高レベルの横浜の水道インフラが全国に広まった理由が――昆布とそろばん?」
「そう。もちろん、イギリスのパーマーさんのマニュアルが素晴らしかったのは確か。でも、それだけじゃ足りなかったのよ」
「……昆布とそろばん。つながらないわね」
「でしょ?」
響香はスマホをスピーカーにして、台所の棚をごそごそ探る。
冷蔵庫を開けて、小さく息をついた。
「うん……これは……日本酒しかない」
「日本酒、いいじゃない」
「ないのよ、日本酒。ないから酎ハイでがまんする」
プシュッ。
「かんぱーい」
「かんぱーい」
「で、なんだっけ? そろばんと昆布だっけ?」
伸子が吹き出す。
「そうそう。そろばんと昆布。水道インフラの成功のカギ」
「酔っ払いのおつまみトークにしか聞こえないんだけど」
「でもね、本当の話なの。ちゃんとした話」
「うん、信じるから。ゆっくり話して」
「まずは、パーマーさんっていうイギリス人が、1887年に横浜に近代水道をつくったの」
「それは知ってる」
「で、次に向かったのが北海道。函館へ。マニュアルを持って」
「そうね、函館は昆布で栄えていた」
「その通り。パソコンも電卓もない時代。その土地ごとにマニュアルを応用しないといけなかったの。必要なのは、計算力と地域の経済力」
「……つまり、“そろばん”は計算、“昆布”は地域資源、ってこと?」
「そう。どちらも“水道”をまわす力。数字と地域力。だから、“昆布とそろばん”」
「……昆布で出汁とって、昆布水売ったわけじゃないのね?」
「響香のほうが発想おもしろいかもね」
ふたりはまた笑った。
夜が少しふくらんで、画面の向こうと台所の空気が、そっとあたたまる。
「だめかしらね、この新年会ネタ。いつも私が考えるのよ、亀田課長の宴会ばなし」
「ニコニコ水道会社の事務って、ふかいわ」
「……やっぱり、昆布は日本酒ね」
夜が静かに満ちて、
画面の向こうとこちら側の台所が、同じ温度で息をしはじめる。
外はどちらも同じ景色。
真っ白な世界に、やさしい雪が降り続いている。
手元には、青白い湯呑みのうさぎ。
マフラーをしたうさぎが、小さなテーブルをはさんで向かい合っている。
雪の粒がガラス越しに光の粒へと変わり、ふたりの笑い声をそっと縁取った。
スマホの向こうとこちら側──ふたつの台所に流れるぬくもりが、同じリズムで呼吸をはじめる。
昆布とそろばん。
数字と出汁。
遠い昔の水道の記憶と、今夜の小さな宴会。
どれも、台所でひっそり始まる“せかいの革命”の材料なのだと、響香はふと思う。
その思いつきが胸の奥で小さく灯り、冬の白さに溶け込んだ。
音のない雪が降り続く。
その静けさの中で、今夜の夜会はゆっくりとページを閉じていくのだった。
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
どこかで、それぞれの「台所」から、小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。
つづきは――
◇◆◇
次回予告:『スマホの夜会 第9夜 噴水の守っているもの』
◆◇
―― 朧月 澪




