第87話 夜会の声と、羽田のしっぽの先
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第87話 羽田のしっぽと雪のむこうの夜会
羽田空港の55番搭乗口へ、足早に向かう。
もし羽田をひとつの大きな生き物だとするなら、そこは“しっぽ”の先端だ。
しっぽまでは、思ったより距離がある。
大きな生き物の血球のひとつになった気分で、動く歩道を進む。
尻尾の付け根にあたるエスカレーターを見上げた。
あの上には、離着陸する飛行機を一望できるラウンジがある。
——そこで夜会のページを開きたい。
夜会。伸子との、静かな時間。
あの飲み会を始めてから、春を待つ気持ちがすっかり薄れてしまった。
むしろ来なくてもいい、とさえ思った。
いままでの会話を反芻する。
夜の時間を、スマホのスピーカーに預けるようにしてきた。
缶チューハイのプシュッという小さな音。
昨年言えずにいた言葉を、泡のように一つずつすくい上げる。
春が来れば、また忙しくなり、庭を右往左往して夜にはバタンキュー。
だから、話すなら——今しかないのだ。
レシピの端に書かれた小さな文字、「Kinoya」。
「これ、読める?」
そんなメッセージから、また静かに動き始める。
ドバイの日本料理店を眺めていたら、どこかで見た文字にひっかかった。
検索すると、創業者のネハ・ミシュラの名が現れた。
日本の名前ではないが、ラーメンを愛して店を開いたという。
画面の中のラーメンの湯気に、視線が吸い寄せられる。
スマホ越しなのに、湯気の香りが鼻の奥まで届く気がした。
「居酒屋の料理も、本格的」
「だしは、きっと鰹節」
根拠のない予想が、なぜだか確信へと変わっていく。
ふと“Kinoya”という響きに、自分の名のかけら——“Kyoka”を感じた。
通話を切ったあとも、私は“きのや、きょうか……”と口ずさんでしまう。
ボールペンで「Kinoya」と書いて、しばらく見つめた。
遠い国の店名なのに、香りのようにふわりと身近に感じられた。
そのとき、LINEの通知。
伸子から——「いつか、ふたりで行ってみようよ」。
その瞬間、画面の向こうから漂ってきたのは、やわらかく深くて、包み込むような香り。
「……なんだか、いい匂い」
「ほっこりするね」
伸子の声の温度が、胸の奥に染みていく。
私はまだ、この続きの夜がほしかった。
春はこなくてもいい——
そう思いながら、そっと首を振る。
空港のアナウンスが流れる。
休み時間のおままごとから授業に戻るみたいに、列へと歩みを戻す。
並んでいる人々から漂う微かな匂いが、少しずつ混じり合っていく。
みんなスマホをかざし、すました顔でゲートを通っていく。
今日は哲郎はいない。
私の順番がきて、問題なく通れたことにほっとする。
……こんなふうに思うの、私だけ?
大人のふりをして、大人は進んでいく。
ゲートをくぐる瞬間、さっきの夜会の声が、まだ耳の奥にそっと残っていた。
知覧の旅はおわった。
市場で、妙蓮寺キャッスル二百五号室の鰹節の香りがよみがえったとき、
心の故郷はひとつの線になり、静かな驚きが胸を照らした。
知覧(第71章〜第83章) おしまい
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。
つづきは――
次話予告:『スマホの夜会 第8夜〜昆布とそろばん』心のスイッチが、またひとつ灯ります。またおあいできますように。
◇◇◇
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お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
あなたの一言が、つぎの物語を運んでくれます。
―― 朧月 澪




