第86話 羽田のしっぽ
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第86話 羽田のしっぽ
響香を乗せた機体は、白い雲の層をゆっくり進んでいく。ときおり雲が切れ、小さな町の屋根がのぞいた。
前方モニターには淡く光る日本地図が映り、鹿児島からの現在地が示されている。
彼女はふと、幼い頃のことを思い出した。まだ禁煙席でもタバコの匂いがしていた時代、父と初めて飛行機に乗った日のことだ。
◇
「まもなく着陸態勢に入ります」
アナウンスに合わせて、32Bのビジネスマンが読んでいた本をそっと閉じた。帯の下から、胸の前で拳を掲げた稲盛和夫氏の写真がのぞいている。
その姿に引かれるように、別の記憶がよみがえる。
──父の蔵書の前で、問いかけたことがある。「この中で、私たちに託すとしたら、どの本?」
父が差し出したのは二冊。稲盛氏の『燃える闘魂』と、『囲碁定石の覚え方』。
経営に興味のない、囲碁もしない夫婦に、なぜこの二冊をさしだしたのか。
理由を聞く前に、時間だけが過ぎてしまった。
今も二冊は寝室の棚にあり、帯を外せないまま眠っている。──戻ったら、もう一度読んでみよう。
◇
機体が傾き、隣のビジネスマンの視線がふと前をかすめた。窓の外には白い峰。──富士山だ。
頂に漂うわずかな雲が、なにかの気配のように見える。
鹿児島から千歳へは直行便がない。羽田で乗り継ぎ、千歳行きはエア・ドゥにした。
JALで第1ターミナルへ到着し、連絡バスで第2ターミナルへ向かう。
知っていたはずなのに、改めて思う。──第1と第2は、思ったより遠い。
案内は少なく、迷うのは私だけのようだ。落ち着かないままバスに揺られ、何度もスマホを確認した。
「大丈夫かな……」
多くの人が当然のようにこなす移動。そこにもきっと、“定石”のようなものがあるのだろう。
◇
第2ターミナルに着くと、空気が少しやわらいだ。高い天井、広い通路。お土産屋から漂うクッキーやバームクーヘンの甘い香りが、心をほどく。
響香は「しっぽ」へ向かった。羽田という大きな生き物の尻尾──55番搭乗口。
動く歩道を、小さな血球のように進む。
尻尾の付け根に着くとエスカレーターがあり、その上にはラウンジが広がっている。曇りガラスの扉が静かに開き、コーヒーの香りが漂う──そんな記憶がよみがえった。
出発時刻まで、あと45分。
ラウンジへ行くか、ゲートへ直行するか。たった一手が、旅全体の流れを変える。囲碁の布石のように。
◇
響香はエスカレーターに足をかけた。
一局の要は中盤にある。自己流に陥れば力は伸びない。定石を学び、忘れ、思い出す──その繰り返しの中で、石の働きが見えてくる。
(『囲碁定石の覚え方』林海峰)
「響香、足元を見なさい」
父の声が、遠くからそっと響く気がした。
* * *
次話へつづく
* * *
◆あとがき
曇りガラスの自動扉が静かに開く。受付の女性の微笑み、抑えめの照明。
その瞬間、空気がやわらかく変わる。
服装はなにも変わっていないのに、足音が静かになる。ざわめきが遠のき、心がゆっくり整っていく。
羽田空港のラウンジは、ほんの一歩で別世界へつながる場所だ。
席を探しながら窓の外を見ると、飛行機がひとつ、またひとつ上昇していく。
そのたびに、遠くにいる誰かへ、自分も少し近づいていく気がした。
ただいま編 第43話 羽田で より
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
また次話で、お会いできましたらうれしいです。
◇◆◇
次回予告:「題87話 夜会の声と、羽田のしっぽの先」
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―― 朧月 澪




