第9話 音の戻る場所
このガーデンの「霊長類」と「げっ歯目」の知恵比べは、もう始まっているのね――。
そんなことを思ったのは、昨年の春のことだった。
水仙の多くは、まだ緑の薄膜にその黄色い花を包み隠し、ひっそりと佇んでいた。
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第9話 音の戻る場所
◇
「台所」という暮らしの中心から、小さな再会の灯がともったように、日常の音が戻ってきたとき。
響香の心には、新しい色合いが生まれた。
二人の時間が、再び動き出したのだ。
◇
エルコンフィールドの近くに住む伸子さんが、その長旅から帰ってきた。
こうして連絡を取り合えば、まるで昨日会ったクラスメートのように、自然に話が紡がれていく。
スマホを握りしめている響香の姿が容易に想像できて、伸子は微笑んだ。
◇
伸子ははスマートフォンをテーブルからキッチンへと動かしながら、響香の声に耳を傾けていた。
「名古屋旅行の話だって詳しく聞いてないのに、次の旅行に行っちゃうんだから。」
響香の声は、どこか涙ぐんでいるように聞こえた。
「だって私、伸子さんちに電話したのよ。ご主人の話も聞けなくて……
結局、未希さんに手紙までもらったんだから!
どうして今どきスマホを置いて出かけちゃうなんてことになるのよ。」
その声は、怒っているふりをしているようにも響いた。
◇
スピーカーを元に戻し、ソファーに腰を下ろす。
ラインを開く前には、「連絡しなかったのはお互い様なのに」と思っていたが、話しながら指は自然にラインのマークをタップしていた。
2023年3月5日
ありがとうです。
縣さん、今シーズンもまた一緒にたくさん楽しみましょうね。
既読がついたのは、一年半ぶりにこのスマホを手にしたおとといのことだったかもしれない。
伸子は、カレンダーに目をやった。
2024年9月18日
「二年近くも、あちこち旅してきたというのに、一番素敵な場所の写真が、自宅の台所と自分の庭だなんて。
伸子さんたら、本当にチルチルミチルの青い鳥みたいね」
響香は、ラインの既読が付く日をずっと待っていたのだろう。
そして、永遠になればいいと思うほど長く話した。
それは、長い歴史の中でバラのアンジェラやポンポネッラが育種されるのと同じように。
旅行の話は、今度ゆっくりと約束した。
響香の庭に咲くポンポネッラのバラの話や、初めて行ったエルコンフィールドの話に、伸子は長く耳を傾けていた。
◇
カーテンも閉めず、電気もつけない北広嶋と岩水沢の部屋。
闇の中で響いていたのは、66歳と57歳の少女の声だけだった。
それでも、響香の部屋に誰かが入った気配をスマホが拾い、冷蔵庫を開ける音や食器を動かす音が遠くに聞こえてきた。
「あー何時間あっても話しきれないね。また電話するね。」
長年の決まり文句で電話は終わった。
◇
伸子は夕食の支度をしなければと思いながら、スマートフォンの画面に目を落とした。
そのまましばらく動かず、静かに画面を見つめていた。
響香が昨年の春、エルコンフィールドの庭で撮ったという水仙の花が、光っていた。
さっきまで響き渡っていた声が、今はもう遠くなっている。
画面を軽くタップして通話を切ると、手のひらに静けさが広がった。
スピーカーの音が消えた時、たしかに空気が止まった。
すべての音が消えた。
やがて、窓の外の虫の声や、炊飯器の音がゆっくりと部屋に戻ってきた。
電気もつけずに浴槽の蛇口をひねり、水の流れる音で、心満ちる時間を味わった。
そして、部屋の明かりのスイッチをつけるカチリという音まではっきりと意識してから、キッチンに再び立った。
◇
この日の電話ごしの伸子の声によって、その映像に音と色と香りがもりこまれ、再現されていった。
伸子を近くに感じた響香は、またエルコンフィールドにひきつけられるようになった。
◇
第9話おしまい
* * *
次話へつづく
* * *
振り返れば、昨年春、できたばかりのエルコンフィールドを見た時間――それは、響香にとって、音も色もない思い出だった。
あの――アジアの鎌が空を切った日も。
稲穂を刈るように、バットは大陸の空を切ったのに。
◇
二人の時間が、再び動き出したとき。
世界一素敵な場所
エルコンフィールドの手前で
水仙のつぼみが、ぽんとはじける
音の戻る場所となった。
あのとき台所で聞いたマイアミの歓声までが聞こえた。
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ページをとじたあとに、少しでも心に残りますように。
◇◆◇
次回予告:「第10話 ポンポネッラと慣れないスマホ」
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作者 朧月 澪




