第84話 32B
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第84話 32B
響香は、わざと聞こえるように小声でつぶやいた。
「モナ・リザが来た年、小学校一年生で、その年の知覧の盆踊りが忘れられない。」
「同じだ。モナ・リザが来た年の盆踊り。」
隣から返ってきた声に、胸が震えた。
まるで映画がスクリーンにふっと灯るような――そんな瞬間だった。
やがて、その光景は三人の知覧での小さな同窓会へと、静かに重なっていった。
「いつかまた。」
響香は、早朝の鹿児島空港にいた。
枕崎で偶然再会した“束の間の同窓生”に別れを告げたところだった。
同窓生といっても、半世紀前の知覧の盆踊り大会に、ただ一緒に居合わせただけ。
けれど、その二人が味のある夫婦になっていたことが、胸の奥でそっと柔らかな波紋を広げていた。
空港のまわりにはフェニックス(カナリーヤシ)やソテツが並び、
南国の朝の空気がゆるやかに流れている。
「もう一日、いようか――」
そう迷いながらも、飛行機のチケットが取れるかどうかで決めようと思った。
満席のはずの便に、ぽつんと一席だけ空いていた。
鹿児島空港からの眺めは、最高だった。
ふと見ると、小さな子どもたちが、飛行機の仕組みを学びに来ていた。
その光景に、かつてジュニアパイロットのバッチをつけて、ひとりで飛行機に乗ったあの日の緊張と誇らしさが、胸の奥でふわりと揺れた。
日が暮れるまでには、北海道岩見沢の自宅まで戻れるだろう。
まずは羽田行き、JAL640便。席は32A。
すでに32Bには、四十代くらいのビジネスマンが座っていた。
響香が会釈して席だと示すと、彼は読んでいた本をそっと閉じ、通路に立って席を譲ってくれた。
「ありがとうございます。」
それ以上の言葉はどちらからもなかった。
彼はまた静かに本を開き、活字の海にもぐっていった。
その本の開いたページが、一瞬だけ目に入った。
――響香の家にもある一冊だった。
あ、と心の中で小さな声があふれた。
「それ、稲盛和夫さんの本ですよね。父がよく読んでいました。
鹿児島の人で……あの、JALを立て直した方ですよね。」言葉は喉元まできたのに、口からは出なかった。
響香は窓の外に広がる淡い早朝の景色に視線を移した。
ページをめくる音が小さく聞こえたが、すぐにアナウンスの声に溶けていった。
飛行機が滑走路を走りはじめ、響香の“時間旅行”が静かに始まった。
1903年、ライト兄弟の初飛行。
1960年、鹿児島―羽田間の開通。
そんな“空の歴史”の延長線上に、
1973年から74年にかけて父と乗った飛行機の記憶と、
知覧の盆踊り大会のあの夏が、そっと重なっている。
胸の深いところで、消えることなく、そっと呼吸を奪うような記憶。
やがて、ひとりで知覧の夏を過ごすようになった。
縁側で過ごした時間、読書感想文に選んだ本たち。
結局、『アンネの日記』だけが鮮やかに残っている。
初めて飛行機に乗ったとき、隣には父がいた。
無表情で、無言。
ただそこにいた。
今日の見知らぬ32Bの男性と同じように――。
――あのとき、父は何を考えていたのだろう。
窓ガラスに、32Bの本の表紙と、さっき開いていたページが“映ったように”感じた。
どちらにも稲盛和夫氏の顔。
そして「徳をもってあたる」という文字。
飛行機が離陸した気配を、身体がすぐに感じとった。
桜島が見える。
子どものころ、溶岩道を歩いた日の砂の感触がよみがえる。
桜島はここのところ、頻繁に噴火を繰り返しているという。
32Bの男性も窓の景色が気になっているような気がして、響香はそっと顔を引いて、背もたれに身を沈めた。
霧島連山が遠くに浮かび、その手前に錦江湾が静かに広がっていた。
――錦江湾。
その海があったからこそ、哲郎は33年前、あのむずかしい父の心の壁を開けたのかもしれない。
たまたまこのあたりの高校に通っていて、父と同じ風景を知っていたから。
今回、どうしても知覧に行きたいと思っていた。
でも――あの小さな同窓会の一瞬で十分だった。
あとは、ゆっくり時間をかければいい。
結局、今回は特攻隊基地には行かなかった。
幼いころ何度も足を運んだ知覧特攻平和会館。
あの空気の「色」だけは、今もはっきりと心に残っている。
飛行機に乗り、片道分の燃料のまま空に向かった青年たち。
九九を覚えたばかりの自分は、額縁の中の若者たちの多さにただ驚いた。
最後の手紙を読もうとしていた小さな自分。
そしてゼロ戦の横で、ひとり風の中に立っていた父。
父は怖いものなど何もない人だった。
子どものころは人文地理が好きで、食卓で地理を語る父は本当に輝いていた。
「白い紙に世界地図を書くんだ。見なくても書けるようになるまで何枚も描くんだ。」
誇らしげに話す父。
母いわく、響香は「父の目に入れても痛くない、たったひとりの娘」だったらしい。
けれど、飛行機の中の父はいつも硬い表情だった。
あのとき、まだ新しかった鹿児島空港で父は写真を一枚撮ったはずなのに――ない。
特攻隊記念館で手を引いてくれた記憶もない。
待つのが何より苦手だった父が、ゼロ戦の横でただひとり、外の風に吹かれていた。
「どうして?」
長い間、そう思っていた問いが、その瞬間、ふいにほどけた。
――父は、自分の涙を守るために、あの場所から離れていたのだ。
目の前の雲を見ながら、涙がぽろぽろと、こぼれた。
32Bの男性に気づかれたら――
「なんだ、この人?」と思われるかもしれない。
そう思ってこらえようとしたが、涙腺を止める金具が壊れてしまったようで、どうにもならなかった。
していないコンタクトのせいにでも、しようか。
「男は泣くな。」
弟の息子にも、常にそれを敷いていた。
けれど特攻隊記念館には、その掟を破ってしまう何かがあった。
父の家には、10歳まで一緒に遊んでくれた若い兄さんたち――特攻隊の青年たちが出入りしていたという。
「響香、おばあちゃんと行っておいで。」
父はただそう言い、館には入らなかった。
写真の前で「再会」はしなかった。
あれは父が、自分の涙を守るための最後の防波堤だったのだ。
昭和の企業戦士の、誰にも見せなかった繊細な引き出し。
父が生涯に一度だけ見せた大きな涙と、小さな涙。
それらは父の心の深い引き出しの、ほんの一部にすぎなかった。
誰がこの国に「開かずの引き出し」を埋め込んだのだろう。
父の引き出しもまた、広い海の一粒。
特攻隊記念館の記憶も、太平洋の一部にすぎない。
もし、悲しみが怒りになってしまったら――。
どうにかなってしまいそうだった。
* * *
次話へつづく
* * *
第85話 鍵のかかったひきだしへ つづく
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
また次話で、お会いできましたらうれしいです。
◇◆◇
次回予告:「第85話 鍵のかかったひきだし」
◇◆◇
―― 朧月 澪




