第80話 ドバイ、鰹節、知覧、横浜――
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第80話 ドバイ、鰹節、知覧、横浜――**
ドバイ、鰹節、知覧、横浜。
響香の記憶のピースと同じ言葉が、異国の夫婦の会話にふっと紛れ込んだ瞬間——
胸の奥で小さな震えが連鎖する。
彼女は立ち止まり、世界がゆっくりと広がっていくのを感じる。
まるで時間が溶け、空気の一粒一粒まで味わえる映画のワンシーンの中に自分が入り込んだかのようだった。
指の先まで美しい動作を身にまとうその夫婦。
そして、赤いスニーカーを履いた茶髪のベテラン接客員。
三人のやりとりは、言葉がパスのように行き交う妙技で、響香だけでなく場にいた誰の心も引き寄せていた。
意味のわからない異国語も、波の音みたいに心地よく耳に届く。
棚にないものまで奥から運ばれてきて、二人の買い物はいつまでも終わらない。
しかも異国の香りをまとったその夫婦は、前からここを知っていたかのように、冷蔵庫の中身まで心得た仕草を見せた。
冷たい氷の香り、燻したカツオの香ばしさ、潮風に混じるジャスミンの香り――
それらが微かに混ざり合い、唯一無二の舞台をつくりだしていた。
そんな様子に見入る人は多かった。
気がつくと、響香のまわりには人だかりができていた。
観客の中には、毎日のように通う小料理屋の女店主もいた。
エプロンには「小料理屋 ○○○」の文字。
女店主がぽつりと言う。
「もしかして、ドバイの“きょうか”って……? “きのや”だったかしら?」
スマホを取り出し、隣の店員に画面を見せる。
響香も気になって覗き込むと、女店主は画面をこちらにも差し出した。
画面には――
「Kinoya」
ドバイで名を知られた店の名前だった。
目の前の夫婦がその店のオーナーかどうかは憶測にすぎない。
けれど女店主だけは確信していた。
きっとあの夫婦は、『グランメゾン・ドバイ』のふたりに違いない――と。
「ふふ、きっとこんな感じよ。」
女店主の知り合いらしい客が、そっと響香の耳元で囁く。
「小劇場がはじまるわよ。」
意味がわからず視線をさまよわせる響香。
女店主は笑みを浮かべ、キムタクと鈴木京香に見立てた一人二役の即興芝居を始めた。
声と仕草で観客を巻き込み、笑いと香りが混ざり合う。まるで魔法のようだ。
ふっくらしたエプロン姿の女店主は、鈴木京香を「まちこ」と呼ぶ。
「まちこはインディアからドバイに家族とともにやってきたの。
あのころのドバイには高層ビルなんてなくて、まるで枕崎の港町みたいだったわ。」
女店主は鼻歌まじりに語り続ける。
「木造のダウ船が波をかき分け、帆が風を受ける音が港に響くの。
砂漠にぽつんと佇むアラビア建築。太陽に照らされ砂が金色に輝く。
市場のスパイスの香り、干物の匂い、潮の香りが混ざり合い、町全体が息をしているみたい。」
女店主のナレーションに、響香の前で港町が立体的に広がる。
「枕崎もまた、日本有数のカツオの港。
漁師たちのかけ声、木箱の軋む音、潮風に混じる魚の香り……港町の活気はそっくり。
とっととっととっと──
船の軋む音、鰹節を削るかすかな香り、漁港の潮風。」
女店主の言葉に、響香は息をのむ。
「インディアン出身のまちこは、港なまりに戸惑う。
そんなとき、誰かが鰹節を持ってきてくれる。
友達もいない小さな漁港で、今日はどの角を削ろうか、明日はどの部分を――
一年の計画を立てながら、丁寧に削って料理をするの。」
『これで、最高のひとしるが、できるわ。』
「次の年の荷揚げの音に耳を澄ませながら、まちこは思う。
『このかおり、大好き。ああ、日本料理って素敵だな』と。」
年を重ねるにつれ、町の木枠の窓はアルミサッシへ。
港町の音も少しずつ近代のリズムに変わっていった。
「家は工務店だったから、アルミサッシの営業マンが東京のお土産や珍しい生ラーメンを届けてくれた。
鰹だしのラーメンが、まちこの心に残る忘れられない味になったの。」
「でも、ラーメンはどこでも手に入るようになって、鰹節はなかなか手に入らなくなる。
そんなとき、ふたたびキムタクが現れる。」
女店主は手元の鰹節を軽く叩き、またまちこになりきる。
「料理はね、人の心を映す鏡よ。不安も、迷いも、全部、皿に出てしまうの。」
今度は女店主はキムタク役の声にして、
「お前、かわらないな〜。それなら、鍋ごと面倒見るよ。」
「『一緒に鰹節を枕崎で直接買いに行こう』って。それがきっかけで、年に数回、ふたりで鰹節を買いに行くようになるの。」
まちこになりきった女店主は、観客に向けて言った。
「このスープには、私たちの思い出も混ざっているのよ。」
場面は静かに変わり、二号店の話へ。
「二号店はロンドン。」
女店主のエプロンはシルクのように柔らかく、大和絵が繊細に描かれている。
ひらりと裾をひるがえし、隣の男を舞台に誘う。
この男は、女店主の連れ合いだった。
ふたりの掛け合いは、舞台上の即興芝居そのもの。
港町の風景や市場の活気まで立体的に広がり、二人が鰹節を削る瞬間を見ているかのようだった。
隣の男は白髪まじりで、観客に向けて言った。
「おれ、キムタク。木村拓紀だ。」
劇はまだ続いている。
「ドバイじゃないだろ? 名古屋だろ? それ、お前の話じゃないか。」
「でも、お前が子供のころ枕崎に住んでなかったら、俺たちの店はなかったかもしれない。
この鰹節は金の延べ棒じゃない。黒い延べ棒っていうのは本当だ。」
「『グランメゾン・枕崎』は恩返しの店なんだよ。」
響香の目の前の二組のカップルは、まるで世紀の映画を演じているようだった。
「ドバイってすごいよな。こことは全然違う。
高くそびえるビルが建ってるもんな。
枕崎はちっとも変わってない。……お前は、変わったけどな。」
まちこになりきった女店主は、裾をひらりとなびかせて拓紀の方を見る。
「今の方がきれいだよ。」
拓紀は場をとりつくるように答えた。
「あんたら、いつであったんかい?」
そこに居合わせた一人が言った。
「親父に連れられてきた盆踊り。あれが、お前と初めて会ったときだっけ? 六歳くらいだったか?」
「覚えてる?」とまちこ。
「さあな。」と拓紀。
「いや、ほんとに忘れていたら海を渡って、どこかに行くわ。」
芝居なのか、それとも素なのか。
響香はその境界を見失いそうになった。
響香は、その二人の話に、忘れられない知覧の盆踊りの夏の光景が鮮やかによみがえる。
そして、わざと聞こえる様にいった。
「モナ・リザが来た年、小学校一年生で、その年の知覧の盆踊りが忘れられない。」
「同じだ。モナ・リザが来た年の盆踊り。」
隣から返ってきた声に、胸が震えた。
まるで二つの映画が同時にスクリーンに映し出されるような瞬間だった。
やがて、場面は三人の知覧での小さな同窓会の一瞬へと静かに移っていった。
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
どこかで、それぞれの「台所」から、小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。
つづきは――
次話予告:『第81話 鰹節 美しく 散る 』
心のスイッチが、またひとつ灯ります。どうぞお楽しみに。
◇◇◇
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お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
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―― 朧月 澪




