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台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO  作者: 朧月 澪(おぼろづき みお)
知覧

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第78話 記憶のピース

台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO

第78話 記憶のピース

1 枕崎で見つけたジグソーパズルのピース


「あっ……」


響香が声を上げたのは、枕崎の潮風が吹く市場の一角だった。


この潮風には、九州の南端だけが知る広さがあった。

東シナ海の塩気をまとい、ゆるやかに大きな太平洋へ抜けていく。

どこか遠い国につながる、深い息づかいのような風だった。


横浜の実家から北海道へ戻ったある日、テレビの旅番組を見ながら、響香はふと思った。


──私の心のふるさとは、どこなのだろう。


その答えを探すように、ふいに飛行機に乗り込んだ。

そしてたどり着いたのが、この枕崎の市場。

祖母の暮らしていた知覧の町から、二十キロほど離れた場所だった。


生臭さのない魚の匂い。

木箱に積まれた野菜。

忙しそうに行き交う人々の声。


そのざわめきが、知覧の祖母の台所をそっと呼び起こす。

胸の奥が、あたたかく震えた。


市場独特の香りのもと、

薩摩訛りのあたたかい声が、ひとつひとつ懐かしさを連れてくる。


とうの昔に空へ旅立った叔母や祖母を思い出し、こみ上げる涙を洗面所でぬぐった。

何事もなかったふりで、待つ人がいるかのように市場を歩き回った。


そのとき、響香は立ち止まった。

平台に並べられた札が目に入ったのだ。


「新さつま節 800グラム 2600円」

「本枯節 L 520グラム 3500円」


黒く硬い鰹節が、記憶のピースを呼び起こした。


視界の端に、そっと置かれた木製の箱――鰹節機。


その瞬間、五十年間封印していた記憶が一気に解き放たれた。


六歳のころのあの日。


妙蓮寺キャッスル二〇五号室の、狭いテーブル。

真っ赤な血。


生まれて初めて見た、自分の血の色。


あの日、鰹節機で親指の腹を切った。

母に叱られるのが怖くて、タオルで押さえ、黙って隠した。

ほんの少し手伝いたかっただけなのに。


その鰹節機は、いつの間にか家から消え、記憶の底に沈んでいた。


だが今、目の前にあるのは「大正・昭和の鰹節機 いまでも現役以上」と書かれた藤印の鰹節機。

高級木材の手触りを見たことで、かけていたひとつのピースがはまった。


削りたての鰹節の香り。

若き日の父。

台所でネギを刻む母のリズム。

寝癖のまま短パンで歩き回る弟の足音。

鰹節機と茶碗と箸で埋まったテーブル。


テーブルは、洗面所をカーテンで仕切っただけの狭い台所のほとんどを占めていた。


記憶のドミノが倒れ、次々と思い出がつながる。


父が中東へ出発したときのスーツケース。

服、土産物の黒いボールペン、折りたたみ傘。


そして隙間を埋めるように詰められたもの。


それは、黒く硬い鰹節。


若き父が、知覧の祖母から取り寄せ、母の手を借りて丁寧に新聞紙に包み、スーツケースに詰めていたもの。

言葉の通じない中東諸国の現地へ持って行くお土産として選んだもの。

それは、父の知る、かかせない家庭の味の本質だった。


棚に並ぶ値札を見つめながら、響香はまたひとつ過去の断片を取り戻す。


──これだったんだ。

ずっと探していたピース。


響香は瞼を閉じ、もう一度、そのフラッシュバックの光景を味わった。

深く息を吸い込み、ゆっくりと目を開ける。

高級木材で作られた藤印の鰹節削り器をじっと見つめた。


棚の隅にひっそり置かれるような木箱に目がいき、

その前には、微笑ましいポップが立てかけられていた。


鰹節マンが吹き出しで語りかけている。


「大正・昭和の鰹節機 今でも現役以上」


さらに隣には外国人向けのポスター。

響香は、観光客向けに貼られた説明文に目をとめた。


The katsuobushi shaver is a nostalgic hand-held wooden tool that transforms a hard, black block of dried bonito into delicate, fragrant flakes. With a motion like planing wood, the user draws the fish across the blade, capturing the essence of umami—an essential taste in Japanese cooking—while often recalling memories of family kitchens and morning miso soup.


(鰹節削り器とは、黒く硬い鰹節のかたまりを、香り高い削り節へと変える木の道具。

まるで木を削るように動かすたび、日本の「うま味」と、家族のいる台所の記憶が甦る。)


──その瞬間、響香は確信した。


これだ。

私がずっと探していた、最後の一片。


妙蓮寺ニューキャッスル室の二〇五号室の台所。

父が母の手を借りて荷造りしていた光景。

テーブルと洗面所のわずかな空間。


父が中東へ旅立つとき、スーツケースには何かがぎっしり詰められていたはず。

けれど今まで思い出せるのは、わずかな服と束ねられた黒いボールペン、紺地の端に「上野十猪」と白書きされた折りたたみ傘だけ。


──あのとき、残りの空間を埋めていたのは何だったのか。

長年の“もや”が、いまほどけていく。


新聞紙に包まれた、黒く光る鰹節。

それが、最後のピースだった。


五千ピースの正月のジグソーパズル。

最後の一片が、カチリと音を立ててはまった。


妙蓮寺キャッスルの小さな台所。

狭いテーブル。

そして、あの赤い血。


ひとつの記憶が動くと、次の記憶がドミノのように倒れ、次々と景色が連鎖していく。


魚市場の音が耳元から消え、脳裏に浮かぶ映像には懐かしい朝の音もともなった。


サッサ サッサ サッサ

カタ

グツグツ


そして、スーツケースを引きずる音。


藤印の鰹節削り器を静かに見つめ、ポップに書かれた文字をゆっくりと読む。


ふたたび響香の耳に市場のざわめきが戻り、枕崎の潮風を肌に感じた。


──そのときだった。



ふいに、鮮やかな存在が視界に入った。


まるで空気を変えるように、異国の夫婦が現れたのだ。

年頃は響香と同じくらいの女性。

指先から足先まで美しい。

日本の藤色のシルク着物をリメイクしたような長いショールで黒髪を覆っていた。


鰹節マンのキャラクターの前で、彼らはスマホを片手に質問をしていた。

店主の「ドバイの・・・」という囁きも聞こえた。


店員たちは配置を変え、サッカーのポジションチェンジのように国際派ベテラン要員を前に立たせて対応を引き継いだ。


たった三十秒ほどの出来事。

偶然に見えるその動きが、実は必然であると気づけたのは、おそらく響香だけだった。


ベテランは、赤いスニーカーをはいた、茶髪の兄ちゃん。


アプリをひと目見るだけで、茶髪の兄ちゃんは英語とアラビア語を切り替え、

迷いも淀みもなく、夫婦の問いに答えていく。

まるで、細かいパスを的確に受けとめるように。


まるでスタジアムの最前席で、

誰も予想できない“名プレー”を、たった一人だけ確実に見た時のような感覚。


市場全体がひとつのピッチになり、

店員たちが選手のように連動していく。


まるでサッカーの試合で、瞬時にフォーメーションが変わるように、

新人の横にベテランが立った光景だった。

一見それは偶然のようで、

実は、意図された“連携”だった。


茶髪の兄ちゃんの赤いスニーカーが、響香の中の“あの日の色”を揺らした。

その見事さに、響香は札幌ドームで見たサッカーの国際試合を思い出した。


隣の席で、どこかの父親が息子に言っていた声が甦る。


「赤いスニーカーが、本田選手だよ」


そのボールを受けた瞬間、四万人が総立ちになったあの光景。


そして、昔、父と交わしたサッカーの会話もふいに浮かんだ。


「長谷部選手はボランチなんだよ」


「ボランチって、真ん中のこと?」


「守備と攻撃の舵を取る人さ」


──ボランチ。舵を取る人。


この魚市場のボランチって、誰だろう。

目の前の光景に、自然とその言葉が重なる。

市場全体を動かしている“舵”は、誰なのだろう?


女性が亭主から無言で受け取った包丁の音が、その答えのように響いた。

タン、タン、タン──

包丁の規則正しい音が、血の匂いと潮の香りに混ざり、空気に厚みが生まれる。


「おい、おまん、その伝票ば、2階に持っていっちょきやんせ!」

かっぷくのいい女性の声が響く。


亭主は金髪の兄ちゃんの手から伝票を受け取り、別の客に声をかけながら階段を駆け上がっていった。


「いらっしゃい! 今日はよかのんが入っちょっど!」

遠くから、さっき目の前にいた亭主の声がする。


「ありがとね。みんなのおかげじゃけん。」

かっぷくのいい女性の声が、包丁の音と市場のざわめきを抜けて、響香の心に静かに染みわたっていった。


そのとき、藤色のショールの外国の婦人が、そっと響香の前を横切った。

ジャスミンの香り。

藤色の衣と溶け合う赤色の手提げ袋。

その中に見える紺色の傘の端に、ひっそりと古い思い出が宿る。


響香の視線は、その夫婦の後ろ姿をいまだ追い続けていた。

藤色のショールが、潮風の中でゆるやかに揺れていた。


* * *


 次話へつづく


* * *


◇◆◇ あとがき ◇◆◇

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

また次話で、お会いできましたらうれしいです。

◇◆◇

次回予告:「第79話 ピースの中身」

◇◆◇

―― 朧月おぼろづき みお

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