第77話 西郷どんの まなざし
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第77話 西郷どんの まなざし
洋子おばちゃんにも、会いたい。急にでてきた感情に涙腺が突然緩む。
横浜から毎年訪れた鹿児島の夏休み。
洋子おばちゃんはいつも、少し申し訳なさそうに言った。
「たいして、どこも連れていけなくてね」
それでも、連れて行ってくれたのは知覧の隣町・枕崎。
太平洋の入り口で、潮風が肌を撫でる町だった。
市場の頭上に掲げられた「Toilet(洗面所)」の矢印に従い、響香は足を進める。
鏡の前に立つと、手書き風の貼り紙が目に入った。
「潮風といっしょに、すっきりしもんそ」
小さく笑みがこぼれる。
鏡の中の自分に目を合わせ、涙をそっと拭った。
「……これなら、大丈夫」
隣で顔を洗う女子高生の声が耳をくすぐる。
「西郷どんがさ、西郷どんがさ、うちのママがうるさくて……」
最初、響香は“西郷丼”という名物の話かと思った。
けれど、母親が西郷隆盛を引き合いに出して、人生の選択を説いているらしかった。
響香は、自分の立ち位置がふわりと揺れるのを感じる。
話の終わりを待たず、そっとその場を離れ、曇り空の下で深く息を吸った。
潮の香りが、胸の奥まで染みわたる。
ポケットから五円玉を取り出す。
女子高生の声と鏡の中の自分の姿が、静かに重なっていく。
――五円玉を見つめながら、幼い日の記憶が波のように押し寄せる。
「西郷さんの銅像……」
小学校の社会科見学で見た銅像のこと。
四十年間、一度も思い出さなかった風景。
バスの揺れに耐えながら、先生の声が遠くで響く。
「約百五十年前(1898年)、日本で最初の公園に犬を連れた西郷隆盛の銅像が建てられました。
その公園は恩賜公園と呼ばれ、『恩賜』とは天皇から賜ったという意味です。
1924年、大正天皇が寄贈し、現在の上野恩賜公園となりました。」
――なぜ、日本最後の内戦の敗者が、堂々と一等地に立つのだろう。
幼い自分には、ただ不思議でしかなかった。
哲郎に聞いたこともある。
「どうして西郷さんは、あんなに堂々と銅像になってるの?」
哲郎は少し考え、静かに答えた。
「志を同じくした仲間との戦いで、自ら切腹の道を選んだ。
だからこそ、敵味方を超えて敬意を持たれたんじゃないかな」
その真偽を確かめたくて、響香はスマホを手にする。
『西郷隆盛の真意や葛藤を知れば、
彼は理想を追い求めた人。
時代と折り合わず孤立したけれど、その志は今にも通じる。』
背筋に電流のような感覚が走った。
西郷さんは、歴史の中の人物ではなく、今も世界と心をつなぐ存在なのだ。
鼻をくすぐる香りが、現実の市場に引き戻す。
熟れた野菜の香り、海風に混ざる魚の匂い、削り節の木の香り。
すべてが、胸の奥でじんわりと絡み合う。
「午後から西に回るな……うねりが残るぞ」
「魚、また深ぇとこか」
氷を砕く音、光を帯びたきびなご、漁師と店主の低い声。
それぞれがリズムを持ち、潮風に溶けて、身体の奥まで届く。
「響香ちゃん。かつおぶしの雄節と雌節とは、味も形もちがうんだよ」
――祖母や名だこおばちゃんの声が、時間を越えて響く。
待ち人がいるふりをして市場を歩くと、足が止まった。
目の前には、鰹節売り場の棚にあるポップ。
「新さつま節 800グラム 2600円」
「本枯節 L 520グラム 3500円」
黒く硬い鰹節が、祖母の家で削った光景を呼び覚ます。
木製の削り器に触れると、手のひらにかすかな温もりと、時間の重みが伝わる。
潮風と香り、音、触感。
全てが、響香の心を静かに満たしていく。
――ここに、確かな自分の立ち位置がある。
「あっ……」
「第76話 記憶のピース」につづく




