第76話 枕崎
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第76話 枕崎
「マッチ箱のような汽車で枕崎の高校に通った。」
実家の本棚で見つけた同窓会誌に、父はそう綴っていた。
知覧から枕崎へ。
響香が子どもの頃に訪れたときには、もうその汽車は走っていなかった。
いま、響香は──
マッチ箱の汽車ならぬ、マッチ箱のようなバスに揺られながら、知覧から枕崎へ向かっている。
記憶にあった砂利道も、姿を消した。
道は舗装され、景色も少しずつ変わっていく。
けれど、響香の中にある風景は、今も変わらない。
バスに乗る人たちの手にあるものも、昔とは違った。
みなスマホの画面に向かい合っている。
同じ制服を着た女子ふたりが、一台のスマホを囲んで談笑している。
その笑顔が、なんともほほえましい。
バスの窓越しに流れる茶畑。
頭上で回る車内の扇風機。
次に見ることは、もうないかもしれない。
スマホで写真を撮るか迷ったが、やめた。
まぶたに焼き付けるために。
これが、響香の原風景だ。
隣町、枕崎の市場へ。
バスを降りても、海は見えないまま市場に着いた。
けれど、風の匂いだけは、さっきの茶畑から一変して、磯の香りに満ちていた。
カツオの腹側が、緑のプラスチック皿に並べられ、氷で冷やされている。
この市場の公社に、響香は二、三年に一度、岩見沢の自宅から電話をかける。
カツオの刺身、さつま揚げ、かるかん──鹿児島の味を送ってもらうのだ。
北海道では、送料無料の商品でも五百円が加算される。
けれど、その五百円は決して高くはない。
冬の嵐の日に買い物へ出る必要がなくなるのだから。
二セットあれば、ワンシーズンを乗り切れる。
しかも、物価高のなかでも値上がりしていない。
「北海道から来ました」と言うと、市場の小さな店主たちと会話が自然に弾む。
「寒いでしょ?」
「ああ、十年前にカーチャンと阿寒湖に行ったな。」
(私は北海道に三十八年住んでるけど、阿寒湖には二十年近く行ってない)
「阿寒湖、広いよね。」
意味のないセリフを響香は、口にする。
「これ、美味しいよね。腹側。」
「おねーちゃん、腹側知ってるの? 本当に北海道から来たの?」
「ええ、知ってますよ。父が知覧出身なんで。」
そう言った瞬間、話はさらに盛り上がる。
「おーねぇちゃん。」
店主は何度もそう呼ぶ。
(本当は“おばさん”だと思ってるんだろうけど。)
「あ〜、アドラー様……」
心の中で小さくつぶやきながら、店主の無駄のない包丁さばきを見守った。
(アドラーっちゅうのは、他人との協力や、自分を大事にすることを教えてくれた心理学者のことばい。……なんでか、心の解説が鹿児島弁になるとよ。)
送料のことが気になる。
聞くべきか、迷う。
北海道に戻ってから電話をかければ安上がりなのはわかっていた。
でも、聞く前にその店主の方が先に言った。
「もし送るんだったら、今や発泡の箱に入れて、北海道にだってクール冷凍便で送れるんだよ。」
初めて来た客へのトーク。
「あの……もし送るとしたら、おいくらくらいになりますか?」
想像どおり店主はいう。
「ねこのマークの表を見て……うん、このサイズだと二千七百円だね。」
「物価高だもの、仕方ありませんよ。
ふるさとの南国の味が、北海道で食べられるんだから。」
響香は笑顔で言った。
「そのTシャツ、ドジャース? 似合ってますね。」
「おじさん、一緒に写真撮ってくれる?」
「いいよ。」
アメリカの黄金チームの青いTシャツを着た店主と、カツオボックスを手に、素晴らしい一枚を撮った。
「さばくとこ、動画で撮ってもいいよ。」
けれど響香は、“撮影禁止”の張り紙を思い出す。
「おじさん、ファンが殺到したら困るから。」
「アイドルみたいに包丁さばくのが夢なんだよ。……つまんねーな。」
そう言って、店主は笑った。
「でもね、ここにちょっと空きがあるから、隣の店で冷凍カルカン買ってきなよ。
こっちには知覧茶も入るし、しっかりビニールで包んでおくから。
気持ちの問題も、大事だからね。」
「ありがとう。」といいながら、支払いを済ませる。
店主のひとつひとつのあたたかいさつまなまりの言葉を胸に刻む。
「もうひとつ、同じセットを作ってもらえる?」
「え?」
「関東に送ることにしたの。伝票、二枚ください。」
「自宅用じゃなかったのか?」
「うん、まあね。気心が知れてる相手だから。」
響香は深く礼を込めて、一万円札を差し出した。
緑の財布から出したのは、ピン札の渋沢栄一。
札幌の地下歩道の金庫の前で、伸子と延々語り合った時間が、ふとよみがえる。
最後に店主は、紐の通った五円玉をひとつ手渡した。
小さな紙が添えられている。
「またまた来やんせ。よか旅をな。
Come visit again. Have a wonderful trip. ――枕崎」
「これからも、五円(ご縁)がありますように。枕崎に。
ここはね、大阪みたいに両替しないから、数量限定で貴重なんだよ。」
響香は五円玉をそっとポケットにしまった。
胸の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになる。
今はもういないおばあちゃんに、無性に会いたくなった。
「せっかく来たのに、たいしてどこも連れて行けんかったね。」
それでも──
ガタゴトと揺れるバスに揺られ、枕崎へ連れていってくれた、あの夏の思い出が
マッチを擦ったときのように胸の奥で、そっと灯った。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
また次話で、お会いできましたらうれしいです。
◇◆◇
次回予告:「第75話 西郷どんのまなざし」
◇◆◇
―― 朧月 澪




