第8話 まだ見ぬエルコンフィールドの庭の空の下で 帰国
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第8話 まだ見ぬエルコンフィールドの庭の空の下で 帰国
1
それは、アジアの鎌となって、打者トラウトのバットを空へと振り抜かせた。
稲穂を刈るように、バットは大陸の空を切った。
一瞬の風が、観る者すべてを一つにした。
この球場は、彼らの活躍を“予言”していたのだろうか。
――いや、むしろ“導いて”いたのかもしれない。
◇
伸子は、その鮮やかな試合を見ないまま、球場のプレオープンからわずか四日後に旅に出ていた。
2
そして、2024年9月30日。
帰ってきたときには、町はすでに新しい色に馴染んでいた。
けれど彼女の記憶には、建設中の巨大なクレーンの影が、モノクロームのまま焼きついていた。
「クレーン車は、今、どこでどうしているのだろう」
そんなことを思いながら、職場へと車を走らせる。
ああ、そういえば、旅立つ前にはすでに撤去されていたのだった。
それでもふと、今それを思い出したのは、きっと秋の空の色のせい。
◇
そう気づき、カーステレオの音量を少し上げて、エルコンの横を通り抜ける。
新しくできた信号で停まるのは、これで二度目。
前を行く自転車が二台。そのうちの一人は、前かごにダウンジャケットを入れていた――まだ、暑かったのだろう。
カーステレオから、サザンオールスターズの歌声が流れる。
「明日、晴れるかな?」
伸子も心の中でつぶやく。
舗装されたばかりの道を走りながら、ふと気づく。
――どうしてだろう、今、海の遠さを意識してしまう。
(昨年の海辺のホテルでのあの日々を思い出すからだろうか。)
曲が終わるのを待ち、エンジンを切る。
「明日、はれるかな?」
と、もう一度心の中でつぶやく。
その言葉に I talk myself と添えて、一呼吸おいた。
◇
そして、店内へ。
スーパーに入ると、買い物客の一人が近づいてきた。
「ひさしぶり!」
女性の声に、思わず足を止める。
「あら、元気だった? 刺田さん」
名前がすぐに出てきて、心の中で少しほっとし、そしてまた戸惑う。
刺田さんは、かつての“ママ友”。
お互いの家を何度も行き来した間柄だったが、伸子にとっては、どこか苦手な相手でもあった。
変わらぬ調子で、腰の痛みや家族のことを一方的に話し出す。
そして、唐突に「暇?」と聞いてくるだろうと伸子は予感した。
返答を考えていると、刺田さんは話を続けた。
「昨日の試合、残念だったわね。」
(きのう野球の話?……みてないな、と伸子は心の中でつぶやく。)
「でも、初登板で初勝利の彼、ほんとかわいかった。
沖縄のお父さんとお母さん、私、見ちゃったの。
あのボールが沖縄に届くなら、いい最終戦よね。」
どうやら球場の売り場で見かけた感動秘話を話したかったらしい。
その会話の中で、伸子は、刺田さんがエルコンでパートを始めていたことを知る。
刺田さんが専業主婦を卒業していたことも、伸子には意外だった。
◇
店を出ると、赤い自転車が停められていた。
「ボールパークFビレッジ えふたん」と書かれた、ボールで遊ぶあどけない熊のシールが貼ってある。
あの信号待ちで通り過ぎていった赤い自転車は――刺田さんのものだったと気づいた。
「エルコンフィールドに行くときは、連絡ちょうだい。案内するわ」
彼女は、昔と変わらぬ調子で言った。
エルコンフィールドの、まだ見ぬ庭。
本当なら、伸子はそこでガーデンボランティアをするはずだった。
遠い旅先から、画面越しにではあるけれど、ずっと見守ってきたその庭。
響香に旅先から連絡することもなく、太平洋も大西洋も、静かに越えてきた。
◇
町の誰よりも早く、響香と歩いて案内したかった、その庭のすぐそばを今日もまた通りすぎる。
けれど、足はそこに向かわない。
しっかりと約束したわけではないけれど――
響香に案内することのできなかったふたつの春。
頬をかすめる秋風の中、伸子は目を閉じた。
――そこに、響香と歩く庭があった。
耳に残るのは、カーステレオから流れていた曲の余韻。
「明日晴れるかな――」
この旋律は、旅先でも、帰り道でも、伸子の心の声をひろう。
小さな希望のように、今日の空と秋風に溶けていった。
◇
第8話おしまい
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ページをとじたあとに、少しでも心に残りますように。
他のお話でもお会いできますように――
前話「水仙のつぼみ」
まさか―― “げっ歯目と哺乳類の戦い”がガーデンの葉の下で、眠っているとは思わなかった。
◇◆◇
次回予告:「第9話 音の戻る場所」
◇◆◇
作者 朧月 澪




