第74話 こゆきの留守番
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第74話 こゆきの留守番
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キッチンに立った瞬間、響香は、ふと胸の奥で小さな決意が芽生えた。
──こゆきにきちんと頼めば、きっと大丈夫だ。
最近のこゆきは、階段を上がれなくなり、和室の片隅で静かに丸くなっていることが多い。
「こゆき大丈夫かな?」
和室のこゆきはその声に顔を上げた。
茶色い毛の間からのぞく瞳は、もうほとんど見えていない。
それでも、音と気配でじっと私をとらえるあの表情は、こゆきが我が家にきたときから変わらない。
そのわずかな反応に、響香はいつも安心をもらう。
目が見えなくても、階段が上れなくても。
こゆきは、いつも家の「中心」にいた頃と同じように、ちゃんと響香の家族を感じてくれている。
そのとき、こゆきの鼻先が、かすかにふるえた。
──においが、動いた。
次の瞬間、こゆきの世界がそっと開く。
響香の声の温度、足音のリズム、台所にひそむ声にならないささやき。
目は見えない。
でも、すべてが伝わる。
鼻先に届く空気の揺れ、耳に届く小さな振動、胸に伝わる微かな鼓動。
ここに、家族の息づかいがある──。
ママの足音が、ゲームをしているパパの横を通り過ぎて、近づいてきた。
いつものように、ママの手のひらが、そっと鼻先に差し出される。
「ねえ、こゆき。パパとお留守番、お願いできるかな?
ママ、どうしても知覧に行きたいの。遠いから、二、三日になるかもしれないよ。」
ママの温かい手のひらを一回そおっとなでる。
するとママが、一回、頭を撫でる。
次に手のひらを二回、そおっとなでる。
すると、ママが二回、あたまをなでる。
さらに三回、そおっとなでる。
すると、三回、あたまをなでる。
そう、三回まで。
これが、ママにOKの大好きな二人の約束。
いつも、三回まで。
ふたりだけの、秘密の約束。
それができれば、大丈夫。
パパのプレイヤーを握る音が聞こえる。
カチャ、といつものリズム。
パパは変わらない。
朝でも夜でも、パパのリズムは同じで、落ち着く。
ママは、少し遠くへ行く準備をしている。
かばんの中の金具が触れ合う音でわかる。
いつもの出かけるときとは違う、長い旅の音。
パパはまだ気づかない。
けれど、それもいつものこと。
パパのゲームが終わった。
パパの息が少し変わる。
いまだ。
深くなり、集中がほどけていく。
ほんの少しだけ──0.5ミリくらい。
体をパパに向けて動かした。
きょうは、ぱぱとふたりでねれるかもしれない。
「どうした、こゆき?
今日はママがいないから寂しいのか?」
すぐ気づく。
パパは、気配に敏い。
その声に、私はさらにそっと体を寄せる。
「たまには、一緒にベッドで寝ようか?」
誘ったのは、わたしか、パパか。
どちらでもよかった。
パパが階段を上がる音。
その一段一段が、やさしい夜の始まりの合図みたいに、パパの腕の中で響く。
二階の寝室は、本の匂いがする。
シーツの洗剤の匂いも。
ここは家族で眠った、思い出の場所。
(四人で寝た夜、あったね。)
パパの声が、思い出をそっと撫でるように言う。
(なつかしいね)
その言葉の温度を胸で受けとる。
そのとき、スマホが鳴った。
明るくて、少し早口。
“てっちゃん”とパパを呼ぶ声。
顔は知らないけれど、何度も聞いた声。
広島のおばちゃんだ。
声の調子で、ママは明日帰ってきそうだ。
布団に入ると、パパの手が、そっと私の背中に触れた。
そのたびに、あたたかい波が広がる。
ここにいていいんだよ、という波。
「こゆき。
ママ、明日には帰ってくるからね。」
安心して、体を丸くした。
外で風が木々を揺らす音が、遠くでゆれている。
その静かな揺れの音の向こうに──
かぞくの足音の記憶が浮かぶ。
パパの体温と、夜の風のリズム。
その中にすっぽり包まれながら、
ゆっくり眠りに落ちていった。
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次話へつづく
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