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台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO  作者: 朧月 澪(おぼろづき みお)
知覧

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第73話 ときは、めくり、そして、また、知覧


昨日、響香は、再び交流の始まった伸子さんとスマホ越しに話をした。

伸子さんは、昨年の長旅のことをおもいだしながら、キーボードを叩いていたところだという。

そのせいか、響香は伸子さんと――そしてかつて旅を共にした友人・バラ子とも――一緒に話しているような気がした。


キッチンに立つとテレビから聞こえる音が耳に届く。

画面で、心の旅の便りが届く。


日常の台所から、五十年前の妙蓮寺の井戸の水へ──

さらには、幼い日の知覧の庭、祖父の穏やかなまなざしへと、心は静かに記憶をたどっていく。


日々の暮らしのなかにひそむ、忘れられない風景がひそんでいる。

小さな音や香り、ひとつひとつの情景が、私の「ふるさと」を形づくっている。


響香は、その風景をもう一度たどるために、旅をするのかもしれない。


台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO

第73話 ときは、めくり、そして、また、知覧


 


妙蓮寺の井戸は、五十年前と変わらず、静かに佇んでいた。


ぐいっと力を入れたあと、ひちひたと流れる澄んだ水音。


その響きは、今も耳に残っている。


 


羽田から北へ飛び、千歳を越え、さらに北へ──。


響香は、夫の哲郎と、愛犬コユキの待つ岩見沢の家へ帰った。


 


妙蓮寺は響香にとって、特別な「原風景」というより、ただ懐かしい日常のひとこまだった。


けれど、それよりももっと遠く、もっと深くから脈打つ風景が、どこかに存在している気がした。


台所に流れる水も、妙蓮寺さえも超えて、古来から静かに続いてきた何か──。

そんなもの手がかりのようなもが、きっと自分の中にある。 

そんな気がした。


いつもの岩見沢の朝が始まる。


耳の奥に残る水音のせいだろうか。

いつもの蛇口の水さえ、いつもとは違うものに見えた。


 


そのとき、テレビから流れてきたのは『にっぽん縦断 こころ旅』が流れてきた。


旅の目的地は、視聴者から寄せられた手紙に導かれる。


「人生を変えた忘れられない場所」

「ずっと残したいふるさとの風景」──。


そんな言葉を手がかりに、俳優が自転車でぶっつけ本番の旅に出る。


BSプレミアムの紀行ドキュメンタリー。

ナレーションはなく、出会う人々との交流が静かな情景で映し出されていた。


 


長年自転車を漕いでいた俳優が亡くなったと知ったのは、訃報からしばらく経った頃のことだった。


朝の、何気ない日常の余白に、ふっと舞い込んできた知らせだった。


 


娘にとって、この町は「ふるさと」と呼べるのだろうか。

ふと、そんなことを頭によぎった。


哲郎と響香は、この地に住んで三十年。


けれど、「ふるさとの景色」と聞かれて思い浮かぶのは、この岩見沢でもなく、妙蓮寺でもなく、──

もっと南、南の果ての町・知覧だった。


三歳の私と、まだ赤ん坊だった弟。

ふたりを見守っていた祖父の姿が、幼い記憶の奥に静かに残っている。


庭で無邪気に遊ぶ私たちを、黙って見つめていた、あの穏やかなまなざし。

その光は、今も心の奥で消えずにいる。


祖父が写真の中の人になったのは、私が小学生になる頃。

その年のお盆の帰省で、「おじいちゃんはトンボになったんだよ」と聞かされた。


畳の部屋に、大きなオニヤンマが飛び込んできた日のことを、今もはっきり覚えている。

あの夏の空気は、確かにそこに満ちていた。


知覧の四季は、それぞれに鮮やかだった。


冬──寒さの中で、一面に咲く菜の花。

風のやわらかさに驚いた。


春──数えきれない緑に囲まれ、木々の多さに息を呑む。


夏──セミの大合唱と台風の気配。

嵐の翌日、虫籠を手に庭に出た。木陰で汗がすっと引く感覚を覚えている。


秋──裏道の奥、小さな水田が稲穂に染まっていた。

そしてまた冬。冷たい空気のなか、火鉢で餅を焼いた。


その小さな火鉢は後に横浜へ持ち帰り、今は部屋の片隅で静かに佇んでいる。


小学生の頃に訪れた知覧では、まだ薪で風呂を焚いていた。

冬の庭に裸足で出て、星を見上げた夜もあった。


仏間に飾られた祖父の写真。

その部屋で眠るのが怖くて、おばあちゃんと洋子おばちゃんの部屋に移してもらったこともある。


結婚前、哲郎と一緒に知覧を訪れたときのこと。

仏間で手を合わせると、哲郎は言った。

「おじいちゃんは、軍服を着ていたんだね」

けれど響香の中の祖父は、庭で子どもたちを見守っていた、あの姿のままだった。

──もう、確かめるすべはない。


最近、鹿児島に住む中学時代の友人から、年賀状代わりにレモンの庭の写真が届いた。

その一枚が、知覧の風景をありありと蘇らせた。


最後に知覧を訪れたのは、父と一緒に祖母の家を見に行ったときだ。

すでに住む人のいなくなった家のまわりに、冬だというのに一面の菜の花が咲いていた。


黄色い花が風に揺れる光景は、初めて見るはずなのに、どこか懐かしかった。


そのときも、父とは特攻隊記念館には向かわなかった。

理由は聞かなかったが、父が知覧で静かに過ごすことを好んでいるのは、自然と伝わってきた。


代わりに茶畑のそばに車を停め、ふたりで空を見上げた。

「原風景は、知覧の茶畑の空かもしれない」


そう思い出す。

幼いころ、祖母と洋子おばちゃんと三人で、あの空を見たことを。


実家の本棚から持ち帰った、父の同窓会誌。

若き日の父が、中東の空の下で見知らぬ風景に知覧を重ねていたことが、そこには記されていた。


北海道のリビングで、そのページを閉じる。

録画していた『こころ旅』を、リモコンで再生する。


秋の放送回では、女優がピンチヒッターとして自転車をこいでいた。

そういえば、若い頃の哲郎は「好きな女優さんだ」と言っていたっけ。

同窓会誌から自然とテレビへと意識が移る。


心の風景をたどる手紙。ペダルが向かう道。

その音は、なだこおばちゃんが自転車で知覧の町をこいでいたリズムに、どこか似ていた。

小さな旅の光景が、やわらかな風となって、部屋を通りすぎていく。


何気なくスマホで検索すると、直前にもかかわらず飛行機のチケットが取れた。


知覧が自分を呼んでいる気がした。


「こゆき、パパとお留守番してくれる?」


愛犬コユキに、夫の哲郎との留守を頼む。

そして響香は、ひとり、知覧へ向かうことにした。


* * *


 次話へつづく


* * *


幼い頃の景色は、時間が流れても、むしろ鮮やかさを増していくように思います。

響香は、こゆきに留守番を頼み、ひとり知覧へ向かいます。

次のお話も、どうぞゆっくりとお付き合いください。  朧月澪

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