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台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO  作者: 朧月 澪(おぼろづき みお)
虹の輪の旅 2 

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スマホの夜会 7夜〜ばら子に教えてもらったこと

伸子は席を立ち、キッチンの水道レバーをゆっくりと上げた。


シンクに落ちる水音は、

まるで遠くの雨粒が記憶の底を叩いているような

静かな規則を持っている。


――この水はどこを旅して、

いま私の手元に来たのだろう。


蛇口からそそがれる細やかな水の粒が、ステンレスの光にきらめく。

細かく砕けながら揺れ、新たな粒となって輪を描く。


その明滅に合わせ、台所の空気がかすかに震える。

伸子は小さく息を吸った。


背後のテーブルでは、

開きっぱなしの報告書の白い光だけが

ぽつんと浮かんでいる。


台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO

スマホの夜会 7夜 〜ばら子に教えてもらったこと


字は頭に入らず、水と時間の匂いだけが静かに漂っていた。


思いつくままにキーボードを叩く。


「ダビデ」

「バラばらこ

「トレーナー」――


文字の残像だけが消えるたび、空気に薄く溶けていく。


パソコンの光は台所の薄闇にゆっくりと広がり、

冷えた夜気をほのかにあたためた。

画面の白い空間が、まるで水の上で震える小舟のように揺れる。


キーボードに触れると、まぶたの奥の景色がゆっくりほどけ、

記憶がそっと立ち上がる。


ベネチアの運河。

湿った潮風の匂い。

夕日の朱と金の帯が、水面を静かに引き裂きながら伸びていく。


出会った全てのひとのざわめきが遠くで溶けて、

オレンジ色の光だけが伸子の頬をすべった。


指を少し動かすと、場面が変わる。


千歳ちとせの滑走路。

冷たい空気が頬を刺し、遠ざかるエンジン音が胸の奥に低く響く。


着地のわずかな震動まで手のひらで感じられるほど鮮明だった。


そして次に、あのジグソーパズルの最後のピースが

光の粒になって宙に舞っていた。


バラ子の手元で揺れていたバラの花芽からする新緑の香りも、

ふっと鼻の奥をかすめた気がする。


響香きょうかと“新年会”と称して集まった日。

札幌の地下街のベンチで、日本にまだ井戸があった頃の話をしたことが

ふと胸に返ってきた。


新年の札幌駅のチカホ。

金庫の前のベンチ。

コートの群れのあいだから、晴れ着の女性の足音が混じる。


そんな細かな欠片が、まだどこかで息をしている。


そのとき、スマホがふっと灯った。

その瞬間、響香の声がどこか遠くから、でも確かに耳の奥を優しく震わせた。


次の瞬間、あのジグソーパズルの欠けたピースが

光の粒になって空中でくるくると回り、カチリとはまった気がした。


妙蓮寺みょうれんじの井戸、まだ現役だったわ。

あいかわらず、ひっそりしていたけど」


響香の声に、井戸に集まっていた古の人たちの声が

きこえてきたかのようだった。


新年会の会話


「それが、妙蓮寺の井戸の場所というのね。」

「井戸端会議って言葉があるじゃない。

ここにも水道があったら……

この水がどこでも飲めたら……

はじめて夢を語り合った場所って、どこだろうって思わない?」

「かつて遠い夢だった場所に今こうして暮らしている。

その魔法、どうやってかかるのだろう?」


あの問いが、伸子の心に一筋の光を灯していた。


「横浜の実家に帰ったのね?

お母さん、元気だった?」

「うん、まあね」


響香は、このあいだ母と庭のさざんかを手入れしたという。

家を建てたとき、横浜市から譲り受けた一本の苗木。

その木が年月を重ね、今では立派に咲き誇っている――

その姿を前に、胸がふるえたと話してくれた。


帰りのバス。

軒を重ねる家々のあいだから、真紅のさざんかが次々と顔をのぞかせる。


小さな時間を積み重ねて生まれた風景が

静かに街を彩っていた。


さざんかのほのかな香りとともに、

その“やさしい驚き”だけが胸に長く残った。


さざんかの話から、虹のにじのわと同行したバラ子の話に自然に移る。


「バラ子さんも、さざんかを育てたいって言ってたわ」

「バラ子さん?」


伸子は言葉少なに、でも確かな熱を込めてバラ子さんの話をした。


「バラ子さんって、まるで哲学者みたいね」

「虹の輪チーム……素敵な名前ね」


響香の淡い声に微かにうなずきが混じる。

その声は夜の台所に波紋のように広がり、空気の粒子まで揺らすかのようだ。


「バラの品種改良や技術の組み合わせの話もしたわ。

未来をどう描くかという問いみたいね」


科学だけでなく、文化や価値観、政治や経済も絡む複雑さ。

何度、夢の中で大統領がトランプを切るのを見ただろう。

現実と区別のつかぬ手つきで。


結局、目指す方向を決めなければ、

どんな技術も力を持たない。


「どうやって、みんなとこの話をするか――」


響香の声が夜の空気に溶け、微かな振動となって

台所全体に広がる。

それこそが、最も難しい問いかもしれない。


母親の選択は、物質的なものだけでなく、

子どもにどんな世界を見せ、どんな価値を伝えるかという

深い哲学的判断を含む。


その選択は日常の何気ない瞬間に潜み、静かに未来を紡ぐ。


台所に流れる音は、ものがたり、音楽、TV、家族の息遣い。


選択肢があるからこそ、バラ子の言葉

「今や全ての母親は哲学者だ」が胸に静かに響く。


育てることにとどまらず、社会や時代、家族を思い、

慎重に、でも確かに日々の決断を重ねている。


伸子はスマホの光をじっと見つめる。

光は手のひらで微かに震え、

ベネチアの夕日も、千歳での着地も、あのジグソーパズルも――

遠い記憶も、未来の予感も、今ここで静かに重なり合う。


水面と光がひとつになり、

過去と未来、夢と現実の境界が

そっと浮かび上がる。


心の奥で問いかける――


――未来のビジョンをどう描くのか。

どんなカードを切り、私は何を選ぶのか。


そのとき、胸の底から静かな言葉がひとつ、ふっと浮かんだ。


「この清らかな井戸の水を、みんなと等しくのみたい」


答えはまだ形にならず、ゆっくりと姿を変えながら

夜の台所の灯りに溶けていく。


手のひらの小さな光が

夢と過去と現実をそっと縫い合わせていた。



◇◆◇ あとがき ◇◆◇

あとがき


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


どこかで、それぞれの「台所」から、小さなせかいを動かしています。

日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。


―― 朧月おぼろづき みお

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