第72話 ベネチアの夕日と千歳の着地 (伸子の長旅5 最終話)
思い出の中の景色が、再び光の束になって戻ってきました。
第72話 ベネチアの夕日と千歳の着地
伸子はサン・マルコ広場を歩きながら、あの夢を思い出していた。
◇
大統領がトランプを切る音で、いつもその夢は始まる。
いつもは一人なのに、昨夜の夢には二人いた。
体格のよく似た男たちが、目の前でカードを切っている。
その動きは同期しているようで、実は互いの札を覗き込もうとする微妙な駆け引きだった。
一人で切るカードはただの手つきだが、二人のカードの間には不気味な緊張が漂っている。
ふざけているようで、どこか恐ろしい――その光景は、伸子の胸に影を落とした。
◇
みんなでつくった富士山のジグソーパズルは完成していた。
だが、誰一人、実りを感じてはいなかった。
スパムの缶も開けられず、かばんに詰めたまま、次の町へと移って三日が経とうとしていた。
完成されたジグソーと、手つかずの缶――。
その二つの象徴が、伸子の心に微かな寂しさを残していた。
◇
部屋には二か月間、ラジオだけが静かに流れていた。
だがテレビが加わると、一瞬、日本に戻ったような感覚を覚える。
2024年パリ・パラリンピック。
日本の車いすテニス選手たちの活躍が、遠く離れた地にも力を届けていた。
日本語の声に、英語の字幕がつく――異国の地にいながらも、自分の言葉でつながれる安心感。
◇
昨日、伸子は大スクリーンを背に、初めてのプレゼンを終えた。
ダビデのラジオの声に励まされ、広い講堂に立つ自分は、もう以前の自分ではないと感じた。
けれど、完全にはうまくいかなかったことを思うと、胸の奥が痛んだ。
だが日本人の活躍を目にすると、涙とともに力が湧いてくる。
――人は、小さな希望を抱くだけで、前に進む勇気を取り戻せるのだ、と。
虹の輪の仲間たちも口々に言った。
「昨日の伸子のスピーチ、すごかったよ。金メダル級だ」
「私もそう思う。とても細やかな技術」
「美術と文学と技術が融合した、アニメのようだったわ」
褒めてもらってもうれしいはずなのに、
虹の輪の“日本人らしい他国の人”たちの言葉は、どこか慰めのように聞こえた。
自分では、まだ納得のいかないスピーチだったからだ。
そして、この虹の輪のチームで議論したいことは、まだたくさんあった。
◇
トレーナーが部屋から出てきた。少し酔って、ご機嫌だ。
「伸子、今までありがとう。君のおかげで僕らの大プロジェクトは完成した。
今日はあのスパムの缶を開けよう。
明日は、ベネチアの夕陽を見て、川くだりをして、未来を語ろう」
伸子は思わずつぶやいた。
「まるで海外旅行みたい」
「もう一年半も旅しているじゃないか」
「そうだった……どこの国にいたか思い出せないときもあるの。ホテルの名前だけ覚えてるのに」
「万里の長城、やっぱり行きたかったな」
トムがジェリーに言った。
「君とチグリス川でチェスがやりたかった」
「じゃあ今やろう。僕はチグリスの夕日の話をするよ」
二人は静かにチェスを始めた。
駒を動かす音が、旅の記憶を呼び起こすかのように響いていた。
◇
そのとき、部屋のテレビが新しいニュースを告げた。
日本語の声に、英語の字幕がついている。
――中国で、日本人の十歳の少年が殺傷されたという報道だった。
画面を見つめていたバラ子が、静かに言った。
「誰もが、歴史の渦の中にいるのね。……私、帰国するわ。伸子さん、一緒に日本まで帰りましょう」
そして続けた。
「もし明日、命が尽きるなら何をしたいか――以前、聞いたでしょう。
孫の凛ちゃんの誕生日の料理を作りたいって。
娘さんが誘導する飛行機で、千歳に戻りたいって。
明日なら、かなうのよ。
ベネチアの夕日と千歳の着地、どちらを選ぶ?」
◇
夢に出てくる二人の男のカードが、何を示すのかはわからない。
けれど――歴史の渦には、負けない。
答えはひとつ。
「千歳の着地。凛の誕生会」
スパムの缶の中身は、想像以上に美味しかった。
帰国団の日本の国旗の中に、ウクライナの旗が混ざっていた。
青と黄色の色彩――春に思い描いた風景が、いま、現実の中で揺らめいている。
グラハム・トーマスの黄色いバラが、小麦のように光を受けて揺れていた。
バラ子と撮った「心のシャッター」をそっと開き、伸子は千歳へ向かう。
――心のシャッターがあれば、どこにいても、この夢の続きを描けるはずだ。
滑走路を抜け、飛行機は静かに飛び立った。
町は小さくなり、雲を超え、空は限りなく広かった。
雲の切れ間から見える川が、夕陽に染まっている。
ダビデに出会った名古屋のコーヒー店。
大阪のカラオケ店、横浜の研修室、バラ子と登った薔薇の丘、
みんなでつくったジグソーパズル、
そして、砂浜を素足で駆けたあのとき――。
羅針盤の針は、いま、確かに千歳を指している。
十月の千歳の街が広がっていた。
鉄橋の下のトンネルを抜けようとする車が見えた。
* * *
おしまい
* * *
* * *
次章
スマホの夜会 7夜 へ
知覧 へ
つづく
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◇◆◇ あとがき ◇◆◇
長い旅をここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この章をもって、伸子の“長旅”はひと区切りです。
わたしもまた、前章・第22話「凛の誕生会」を振り返ってみたいと思います。
お話は、まだ続きます。
響香と伸子の「スマホの夜会」が開かれる予定。
次話予告:『スマホの夜会 第七夜 バラ子に教えてもらったこと』(仮)
どこかで、それぞれの「台所」から、
小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、
どこかで感じていただけたなら幸いです。
心のスイッチが、またひとつ灯りますように。
◇◇◇
お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
あなたの一言が、つぎの物語を運んでくれます。
―― 朧月おぼろづき 澪みお




