第68話 伸子とバラ子の春(伸子の長旅1)
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第68話 伸子とバラ子の春――希望の色、グラハム・トーマス。
1 ソメイヨシノ
伸子は、日本を離れて、はじめての春を迎えていた。
虹の輪の仲間と歩みはじめたのは、あの横浜の春だった。
津軽海峡を越えただけなのに、
あのときもまた、はじめて見る春の色に心が動かされた。
計り知れぬ樹齢のソメイヨシノ。
その下に立ち止まり、見上げる人。
目もくれず、急ぎ足で通りすぎる人。
見知らぬふたりが、ふと足を止め、桜をさして語りはじめる。
市バスの銀の窓枠が、それらの風景を切り取り、
まるで額縁のように映し出す。
流れゆく景色が、一枚の絵画となっていく。
横浜の町は、思いのほか坂道が多かった。
バスの運転手が、穏やかな声でアナウンスを流す。
「お降りの際は、バスの後ろを渡りますと大変危険です。
皆さま、ご注意ください。
この先の信号先にも、美しい桜がございます。
健やかな新生活をお過ごしください。」
──バラ子と見た、あの桜が忘れられない。
2 異国で迎える春
あれから一年。
太平洋も大西洋も越え、
冬が終わろうとしている異国の地で、また春を迎えている。
横浜のときと同じように、
人々がスマホで写真を撮る光景が、春の訪れを教えてくれる。
ただその横を歩きながら、耳に飛び込んでくるのは、知らない言語。
「やっぱり違うな」と思う感覚と、
「どこも同じだ」と思える静かな安堵が、心の中で交差する。
──世界中、どこでもこうであってほしい。
3 グラハム・トーマスの前で
バラ子は、“Graham Thomas”と書かれた
バラの木の前に立っていた。
「ここでも、もうこんなにつぼみができているのね。
去年、横浜で見たのと同じだわ。」
「黄色い、きれいなバラですよね。」
花人クラブの面々が
「このバラだけは庭に欠かせない」と言っていたのを思い出して、
伸子はそう返した。
「お庭にトーマスあるの?」
「いいえ。なんとなく、うちの庭には似合わない気がしていて。」
「アンジェラが主役ですものね。」
「よく覚えてますね。」
「ええ。」
4 バラ子のまなざし
「この黄色いバラと、日本の青いバラ。
そんな景色、すごいと思わない?
なんでも“バラ子さん”が好きそうじゃない?」
「ははっ、そう、“なんでもバラ子さん”って。ふふ。」
と、こちらのバラ子さんと笑いあった。
「でも、私は植えないわ。なんでもバラ子さんじゃないから。
私、帰ったら……日本の山茶花を植えたいの。」
そう言って、バラ子は遠くを見つめた。
さざんか さざんか 咲いた道。
落ち葉だ 落ち葉だ ♬
北海道で生まれ育った伸子にとって、山茶花はまだ見ぬ花。
日本を旅したいと願っていたのに、
こんな遠いところまで来てしまった自分に、ふと気づく。
「このトーマスが咲く前に、また出発よ。
いいのよ、日本に帰っても。そういう決まりだから。」
バラ子が言う。
「いえ、次の場所にも行きます。」
答えは、昨日のうちに決めていた。
「きっと、きれいだわ。咲いたら、この景色。」
バラ子と、しばらくそこに立っていた。
“It's enough that I've taken the picture with my heart.”
──心のシャッターで、十分。
5 バラに込められた記憶
グラハム・トーマスの作出年は1983年。
そのころ、ベルリンの壁はまだあった。
ヨーロッパにも、安堵のときがあったのだろうか。
百年戦争、三十年戦争、ナポレオン戦争、
第一次世界大戦、第二次世界大戦──
そして、ベルリンの壁。崩壊して、今年で三十六年。
伸子の長女が生まれた年でもある。
「グラハム、トーマス・オースチンが命名したのよね。」
「イギリスの植物学者であり園芸家でもある、
グラハム・スチュアート・トーマスへのオマージュですね。」
「この“敬愛のループ”を、この場所はちゃんと守っているのね。」
バラ子もまた、その敬愛のループをつなげている。
伸子はそう思った。
ユーラシア大陸もまた、今度こそ──
千年先まで咲き続ける「花の都」をつくりたい。
そう願っている人も、きっといる。
6 バラ子が見たかったバラ
ジョセフィーヌも、あんな美しいバラを見たら、
きっと驚いたでしょう。
天国で会えたら、教えてあげたい。
──あなたの愛したバラが、今では世界中で咲いているのよ。
ナポレオン皇后となったジョセフィーヌ。
彼女が波乱の人生の晩年を、バラの育種に捧げたことは、日本でもよく知られている。
しかし、その生涯は、わずか五十年で幕を閉じた。
「でも、まだ見てなかったんだわ、私。黄色いバラ。」
バラ子が、グラハム・トーマスを見たことがなかった。
その事実に、伸子は驚いた。
グラハム・トーマスの鮮やかな黄色。
それは、希望の色。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
どこかで、それぞれの「台所」から、小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、
どこかで感じていただけたなら幸いです。
つづきは――
次回予告:『第69話 夢のテーブルとシャッフルの音(仮)』
お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
あなたの一言が、つぎの物語を運んでくれます。
―― 朧月 澪 (おぼろづき みお)




