第67話 スマホの夜会(第二夜)〜道志川の水の記憶〜
――水は記憶を運ぶ。
父の声も、街の灯りも、スマホの向こうに流れていたようだった。
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第67話 スマホの夜会(第二夜)〜道志川の水の記憶〜
「もっと、お父さんの話を聞かせて、じゅういさん。」
そんなセリフではじまるスマホの夜会も、 たしかに、あった。
直接会えない時間が続いていたころのことだ。
キッチンからみるTV画面の向こうでは、
札張大通りの景色が、
知らないあいだに少しずつ色を変えていた。
響香のスマホに届いた一枚のメモの写真。
それを、伸子が翻訳してから――
ふたりの「スマホの夜会」は、
なにかと、響香の父の話から始まるようになった。
父が“第三コーナー”を切ったのは、
昭和から平成へと時代が移り変わるころ。
大通りのイルミネーションを楽しめなかった友達が、
帯広に帰ってきた年でもあった。
小渕官房長官が「平成」と掲げ、
その後、総理となり、二千円札を発行したあの頃。
「50代のころはね、もっとあっちこっちに行ってたよ。
アメリカ、中国、ロシア、ヨーロッパ……。
で、60代近くで雇われ社長になって、
会社まで立ち上げちゃったみたいなの。
いつの間に……って感じでね。」
第三コーナーを切った父は、
全力で駆け抜けるランナーのようだった。
ポケットには、ニトロ。
心臓発作がいつ来てもおかしくない体で、
それでも、走り続けた。
そして――あの日。
突然に。
いや、ある意味では必然として、終わりが来た。
それは、世界が衝撃を受けた日と同じだった。
父は、霞ヶ関で緊急手術を受けた。
一命を取り留めた父が最初に見たのは、9.11の映像――
高層ビルに旅客機が突っ込む、あの瞬間だった。
その頃、私は北海道の自宅で、同じ映像を見ていた。
手術の成功を知らせる電話を握りしめながら。
崩れ落ちるビルの煙の向こうに、
生き延びた父の姿を重ねていた。
「まるで、生存者名簿に父の名前を見つけたかのようだった。」
北海道から霞ヶ関の病院へ駆けつけ、
父と交わした言葉はほんのわずかだった。
「びっくりしたよ。まだ夢の中にいるようだ。
旅客機がマンハッタンのツインタワーに突っ込むなんて……。」
父は、自分の体のことは一切話さず、
病室にそなえつけられたTVニュースの話をした。
天井をしばらく見つめたあと、
父はゆっくりと私のほうに視線を戻した。
「腕時計を……みつくろってきてくれないか。
日付のわかる、デジタルのやつを……。」
枕元には、まだ封を切っていない真新しい携帯電話の箱が置かれていた。
父はそれに触れようとはしなかった。
あとから思えば、あれは当時テレビで話題になっていた最新機種だった。
私は頼まれるまま時計を買いに行き、
「これでいい?」――枕元で交わした言葉はそれだけだった。
霞ヶ関の駅の周辺に漂っていた空気は、
響香にはどこか異質に感じられた。
ざわめきはなく、行き交う人々はスーツと革靴だけを身につけ、
まるで時間が少しだけ止まったかのような世界に見えた。
響香が話を終えると、
スマホ越しに伸子の階段をのぼる足音がかすかに響いた。
「9.11の映像、私も今でも忘れられないわ。」
「まるで、長い時間をかけて積み上げたものが、一瞬で崩れていくのよ。」
その言葉に、響香は何か大切な記憶が呼び覚まされるような気がした。
伸子は二階の部屋に腰をおろしたようで、
再び声が落ち着いた。
「大変な手術だったけど、あれから、おだやかに二十年……うん、がんばった。」
「猛ダッシュしかできないいのししが、がんばってじっとしていたわ。」
独り言みたいに、響香はスマホに向かってつぶやいた。
話は自然に「横浜の水」へと移っていった。
「響香さんのお父さん、心臓が悪かったのよね。
水がいいから、手術のあとも、がんばれたんじゃない? 横浜のどこ?」
「青葉区ってとこよ。」
「それなら、水源は道志川じゃないかしら?」
「道志川? 伸子さん、やっぱり水のことに詳しいのね。
虹の輪の旅って、水道施設の海外研修みたいなものだったの?」
「まあ、そんなところかしら。
でも、横浜の水が良いのは有名なことよ。」
「へぇ、そうなんだ。青葉区、長寿第2位の隠れた秘訣かしら?」
「長寿2位? 本当??」
「今は、よくわからないけれども……
それより、道志川って聞いたことないわ。多摩川とか相模川じゃなくって?」
「水源林があるのよ。」
「すいげんりん?」
「水の源になる林。
大正時代、横浜市は自前でその森を買ったのよ。山梨県の方にね。」
伸子いわく、水源林こそが健康の源でもあるらしい。
「毎日、一リットル、ノルマで先生に与えられていったけ。」
「水は命の源よ。」
「横浜の水なら、質もばっちりだから。」
「その水源林のおかげね。」
響香は、実家の父や母、叔父、叔母の顔を思い浮かべた。
父は心臓の大手術後も何度も北海道を訪れ、余生を穏やかに過ごした。
横浜の叔父や叔母も七十を超えて、テニスや野球、町内運動会に参加し、皆元気だった。
あらためて、横浜の水に感謝した。そしてその水源林にも。
「横浜のお水って、そんなに良かったんだ。高校生まで普通に飲んでたけど。」
「日本の“横浜システム”は、世界トップクラスの水道インフラよ。
このシステムが成功したから、今の日本の水道はここまで整ったの。
虹の輪のメンバーも、みんなそれを認めていたわ。」
「そう。大正四年に水源林が完成したの。
横浜市が、自分たちの水を守るために、山梨の道志村に“森ごと”水源を買ったのよ。」
「森ごと?」
「そう。あの頃としてはすごいこと。
外国に頼らず、自分たちの手で“水の命”を確保したってわけ。」
「道志川の水はね、いちど丘の上まで汲み上げられるの。野毛山ってわかる?」
「動物園のあるところ?」
「そう。その下に、野毛山配水池っていうのがあるの。
西谷の浄水場からポンプで丘の上まで送って、そこからは自然の力で流していたのよ。
桜木町、関内、山手、元町――そういう街へ。
百年も前からね。」
「へぇ……そんな仕組みになってたんだ。」
「山の水が丘を越えて、港の街に届く。
横浜の水って、そうやって生きてるのよ。」
響香は、スマホの画面を見つめながらうなずいた。
道志川の水が野毛山を通り、横浜のまちへ――。
「丘の上に立つと、街の“水の記憶”が流れているように感じられるのよ。
それから、横浜線にのって水源林にいったわ。けっこう遠かったわ。」
伸子の声を聞きながら、響香はまぶたを閉じた。
その向こうに、道志川の水源林が浮かぶ。
杉や檜がすっと背を伸ばし、
薄暗い林床に差し込む光が木漏れ日となって揺れる。
ところどころにコナラやミズナラが混じり、
落ち葉がふかふかの土を覆っていた。
足元にはササや小さなツツジが茂り、
雨のたびに土にしみ込む水をやさしく受け止めている。
空気はひんやりと湿り、
川のせせらぎや鳥のさえずりが遠くから聞こえる。
森を歩くたび、ひとつひとつの木が水を蓄え、
流れを清めていることが肌で感じられるようだった。
丘の上から見下ろすと、川沿いに続く深い緑が光を反射し、
街へと流れ出る水の命の源を想像させる。
道志川の水源林は、ただの森ではない。
そこは、横浜の街の“水の記憶”と未来をつなぐ静かな守り人だった。
「何飲んでるの? 私は“ほろよい みかんサワー”。」
「私はグレープサワー。アルコールゼロだけどね。」
「あ、明日仕事だもんね。ごめんね、お酒じゃなくて。
でも、聞いてくれてありがとう。やっと、三回忌ができた気がする。」
「また飲みましょうね。」
「この前もらったお土産、クリスマスの日に開けようと思ってる。」
「そう。」
ふたりは同時にスマホをタップした。
響香は、伸子からもらったお土産の箱を見つめた。
「虹の輪のチームのことだけどね。響香さんも、きっとその一員よ。」
「えっ?」
それは、夢かもしれないと思った。
伸子は笑いながら言った。
「お土産の箱を見れば、わかるわ。」
――二人で、開けられたらいいな。
響香の手元にあるお土産の箱を、
画面越しの伸子も同じように見つめている気がした。
声も息づかいも、階段のきしみも、
すべてが小さな振動となって、二人の心にそっと届く。
遠く離れていても、時間と距離を越えて、
過去と今の記憶がひとつに重なる。
砂の城の崩れた音も、父の全力で駆け抜けた日々も、
今ここで静かに胸に落ち着く。
二人はまだ手を伸ばせないけれど、
心の中でそっと手をつなぎ、箱を開ける未来を想像した。
スマホの光が、二人の心にそっと触れ、
未来を優しく照らしていた。
伸子が、虹の輪の仲間たち――
ダビデ、ギター、バラ子、トレーナー、ジェリー、トム――と歩いた水源林の話を聞いていると、
まるで響香もそこを歩いたかのような気がした。
見上げても尽きぬ杉や檜の針葉樹と、
コナラやミズナラの広葉樹が混ざり合うこの森は、
日本の中でも貴重な針広混交林だった。
一方、伸子はスマホを切ったあと、
水源林から流れきた水がたどり着く街――横浜の風景を思い出していた。
バスから見る風景を、異国でも思い出していた。
「元町」というバス停の近くに、
たしか、ソメイヨシノが咲いていた。
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
蛇口から流れる水の向こうに、森から届く声がありました。
あなたの台所にも、小さな革命が始まりますように。
つづきは――
次話予告:『第68話 バラ子と伸子の春(仮)』
心のスイッチが、またひとつ灯りますように。
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お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
あなたの一言が、つぎの物語を運んでくれます。
―― 朧月おぼろづき 澪みお
※道志川水源林は、実際に横浜市が管理する水源保全の森です。




