第65話 霧ヶ峰からの手紙 〜透明なギターの音とともに〜
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第65話 霧ヶ峰からの手紙 〜透明なギターの音とともに〜
冬道を抜けた夜の空に、ギターの透明な響きがまだ胸に残っていた。
カーナビから流れる歌の景色が、車の窓に映る。
空に月を探しながら、一車線だった道は二車線に変わり、
空はますます広く、遠くへと伸びていった。
あの朝、シャッターに収めようとした、かまぼこ型の建物にまたスマホを向けた。
湾曲した横壁に大きく書かれた《Blue Rose Field》。
「ブルーローズ フィールドって、なんだろうね」
千歳に向かう朝、横にいる哲郎に聞いた。
「青いバラの畑。青いバラは不可能って言われていたけど、今は青いバラもあるから、不可能をやってのけたって感じじゃない?」
――日本列島を記録的な寒波が襲う中、帰路につく二〇二五年二月六日。
自宅のある〈岩水沢〉と書かれた青標識をくぐる。
いつも寒波に襲われるこの空は、
月が出ていてもおかしくない晴れた夜だった。
哲郎のスマホには、メールが届いていた。
青標識の下をくぐった先には、
ほんのり温かく、ちょうどいい部屋が待っている。
そのことを、響香は哲郎によって知らされていた。
メールの相手は――霧ヶ峰。
まあ、帰宅したときに温かい部屋が待っていてほしい――。
北国の誰もが三十年前に抱いた夢が、
知らぬ間に達成されていることには驚いた。
霧ヶ峰とは、エアコンの名前だ。
北海道に住むと決めたとき、
冷房のエアコンをつけるとは思わなかった。
しかし、予想以上の速度で温暖化が進んでいるのかもしれない。
北国の冷房用クーラーなど、
温暖化を加速させる要因に違いないし、
そもそも夏の部屋に外のひんやりした風が入り、
気持ちよく眠れる瞬間に「北海道でよかった」と思っていたのに……。
汗だくでTシャツを濡らしている孫を前に、娘が言った。
「そんなこと言ったって、
気がついたら日射病で家で倒れてた、ってことになりかねないよ」
その一言に、
それまでの持論を、響香はそっと引き出しにしまった。
引っ越したばかりのアパートに、
すぐさまクーラーを取り付けた娘夫婦に倣い、
孫に敬遠されぬように、エアコンを探し始めた――。
滑稽な話だが、取り付けが終わったのは、秋風が吹く十月の半ば。
冷房としての出番はまだ先。
その前に、ありがたく暖房としてデビューしたのだった。
このエアコンは優れもので、
留守中でも室温を知ることができ、
遠隔操作でスイッチを入れることもできる。
家に帰ると、娘に預けていたこゆきが待っていた。
哲郎に、まっさきに駆け寄り、しっぽをふる。
いつもの、つぶらな瞳。
「ただいま」
キッチンの水道のレバーをひねり、
さらに水を入れる。
ペロペロと飲むこゆき。
妙蓮寺の井戸の水は、五十年前と変わらず、静かに流れていた。
明日は、伸子さんに電話しよう。そして、そのことを伝えよう。
この岩水沢の我が家が、百年前の“ブルーローズ フィールド”であることは、間違いなかった。
おしまい
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
どこかで、それぞれの「台所」から、
小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、
どこかで感じていただけたなら幸いです。
あの日の井戸の音、家族の声、夜風の匂い。
それらは、今も暮らしの奥に静かに息づいています。
この物語を通して、
あなたの中の「小さな台所の記憶」にも、
あたたかな灯りがともりますように。
つづきは――
次話予告:
『ロサンゼルスと道志川からの便り(全3話・仮)』
第64話 電話じゃわからないよ
心のスイッチが、またひとつ灯ります。
◇◇◇
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あなたの一言が、つぎの物語を運んでくれます。
―― 朧月おぼろづき 澪みお
(妙蓮寺編・全8話)
第58話 響香のランドセルと信号機
第59話 妙蓮寺駅 踏切の音
第60話 赤プリって?
第61話 実家の本棚 ㊙の記憶
第62話 羽田で
第63話 飛行機の中で
第64話 詩「透明感のあるギターリスト」響歌
第65話 霧ヶ峰からの手紙 〜透明なギターの音とともに〜
―― 妙蓮寺編 おしまい ――




