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台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO  作者: 朧月 澪(おぼろづき みお)
妙蓮寺

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第61話 実家の本棚 ㊙の記憶

台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO

第61話 実家の本棚 ㊙の記憶


墓参りに行った翌朝、響香は奥の和室へと足を運んだ。


久しぶりに本棚の前に立つ。


暖房の熱が届かないこの部屋は、冷蔵庫の中のように寒い。

分厚い靴下を重ねても、それでも畳の冷たさが足裏に残った。


掘りごたつを組み込んだその和室は、かつては客間だった。

いまでは座卓に非常食や水のボトルが丁寧に積まれ、納戸のように使われている。


床の間の近く、畳に手が届きそうな低い棚には、博多人形や針の止まったままの時計が並び、

障子越しの淡い光を静かに浴びていた。


その光景は、時間をゆっくり溶かすように、昔の記憶を揺らした。


障子の白さに目を細めると、この家に引っ越してきた日の情景が、まるで昨日のことのように浮かんできた。


引っ越したのは、響香が小学六年生のとき。

妙蓮寺ニューキャッスルの一室を手放し、ローンを組んで両親が手に入れたこの家。


「横浜」といっても、港からは一番遠い場所だった。


もう築五十年になるけれど、意外にしっかりしている。


当時、「リビングは広く。窓は大きく」と父。

「I型の長いキッチンがいい」と母。


今ではありがちな間取りだけれど、

五十年前の営業マン・大堀さんには、どうやら手間のかかる注文だったようだ。


「応接間、いらないんですか?」

「これだけ大きな窓にすると、梁を特別に入れないと審査が下りません」


二流企業に仕えた“企業戦士”だった父と、パート勤めの母。

要望は多く、予算は少ない。


どれも譲れず、最後にあきらめたのは──階段の一段だった。

その分、一段一段の高さが、つま先がわずかに引っかかるほど増した。


ほんのわずかな差。

その段差が、数十年後、致命傷になるとは思わなかった。


「お父さんが、二階から降りられなくなったの」


あの電話から、父の闘病と母の看病が始まった。


あの手術よりも前から、父は薬を飲んでいたけれど、

病気と“戦って”いたわけではない。


うまくつき合っていた。


綱渡りの手術のあとも、何事もなかったように階段を降り、いつもの朝を迎えていた。


もし、あの階段の一段があれば──

もう少し、病気と“戦わずに”つき合えたかもしれない。


二階に上がれなくなってからも、「家ですごしたい」と言って自主退院し、最後まで自宅にいた。


それでも、きっと父はこう言うだろう。

空の上から、ぽつりと、誇らしそうに。


「いい間取りだろう」と。



かつて本棚には、世界の文学全集がずらりと並んでいた。


今はもうそれらはなく、代わりに並んでいるのは、

樹木希林さんの本や、母が「残したい」と思った数冊だけ。


響香が希林さんの本を開くと、付箋が貼られたページが目に入った。


その言葉を見た瞬間、思わず涙腺が熱くなり、

「やばい」とつぶやいた。


この本たちを一冊ずつ開けば、

母が断捨離に費やした時間を、また繰り返すことになる。


そして結局は、同じ棚に戻すことになるだろう──

そう思い、響香は視線を上に逸らした。



 本棚の上の六花の箱が目に入った。

あの、馴染みのお菓子の箱で、上には「写真」と書かれた紙が貼ってある。


若い頃の父がラクダに乗っている写真──

それを思い出した。


箱を下ろして蓋を開けると、悪いことをするわけでもないのに、思わず息をひそめた。


蓋の向こうには、整然と整理された写真の束。

胸がぎゅっと熱くなって、思わず「これも、だめだ」とつぶやいた。


中をできるだけ乱さないように、慎重に写真を探した。


「パパ」と書かれたフォルダを開く。


けれど、ラクダの写真はなかった。


ファイルとファイルの間に、一通の白い封筒が挟まっていた。

封筒には、

「㊙️ 非公開」と母の字で書かれている。


おそるおそる開けると、中には一枚の写真──


野原に並ぶ数十人の子どもたちの中に、幼い頃の母が写っていた。


白黒のセピア色の写真なのに、母のセーターだけは不思議と「赤い」と感じた。


大きくも、小さくもないセーター。

たぶん、おさがりだ。


それでも、どこか鮮やかに見えた。


母のそばには、叔父と思われる少年がふたり。

彼らのズボンにはさまざまな模様が入り、一時期ユニクロで見かけたデザインを思い出した。


でも、この写真のどこが「非公開」なのだろう?


この幼子の輪の中に、隠しておきたい誰かでもいるのだろうか。


響香は写真をじっと見つめた。


迷いながらも部屋を出て、母に尋ねた。


重々しく語り出すかと思いきや、母は意外とあっさりと言った。


「あんな……浮浪児みたいな写真、人に見せられないよ」


その言葉を聞いた瞬間、また、あの謎のメモのことが、響香の頭によぎった。

アラビア語のレシピの余白に書かれた「㊙️」の文字。


写真の記憶と重なるように、あの日のことを思い出した。


秋、伸子とランチをしたときのこと──


「旅していた頃の話、あとで聞かせてね」と言ったのは響香だったのに──


スマホに保存されていた画像を取り出した瞬間から、

話は伸子の旅の思い出ではなく、アラビア語の渦に引き込まれていった。


「たぶん、これ、料理のレシピよ」


スマホをのぞき込みながら、伸子は翻訳アプリを開いた。

反転して読みにくいひらがなの下に、確かに料理名らしき単語が浮かび上がった。


そのレシピのすみのほうに、見覚えのあるサインがあった。


響香の父の名前。

ueno jui。


そして、日付。1972・11・7


その下には、ひらがなを覚えたての子どもの文字。

「きょうか KYOKA」と読めた。


伸子も、弟も、それは響香と父との美しい一ページと確信したのだ。


「㊙️」の文字は、何かを隠すためではなく、

忘れたくなかった記憶のしるしだったのかもしれない。


響香だけが、その日の記憶がまったくなく、腑に落ちなかった。

けれどなぜか、あの日、若き日の父に会えたような気がした。


──母の赤いセーターの写真と、アラビアのレシピ。


「見せられない」と言った母の過去と、

「きょうか」と書かれた未来への小さな願い。


レシピにあったマグルーバ、カタールの料理──


それは今、素敵な郷土料理だが、

かつてそれは、現地の人々にとって“貧しさ”の象徴だったのかもしれない。


若き日の父が、どこかアラビアの地で、現地の料理を教わる姿が心に浮かぶ。


──「㊙️」に込められた意味。


母の赤いセーターの写真。そして、アラビアのレシピ。


そのふたつが、響香の中で静かに、確かにつながっていく。


* * *


 次話へつづく


* * *


◇◆◇ あとがき ◇◆◇

***

お読みくださり、ありがとうございます。

実家の本棚に眠っていた“㊙の記憶”──

ひとつの写真と、アラビアのレシピが

ゆっくりと響香の中でつながっていきます。

「秘密」は、隠すためではなく、

忘れたくない記憶のしるしなのかもしれません。

***

 「第62話 羽田で」


作者:朧月 澪


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