第57話 See you again .
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第57話 See you again .
1 セスナ?ジェット?
羽田へ向かう首都高速は、
右へ、左へと分岐をくり返しながら
らせん状に空へと伸びていった。
まるで空へ伸びる回路のようだった。
伸子は、次々と変わるコンクリートに切り取られる
空の形を見ていた。
八人乗りのバスの中。
研修センターで過ごした半月のせいか、
皆の表情からは緊張が消え、
どこか安堵の色さえ漂っている。
けれども、母国も本名もわからないままの人たちばかり。
そんな状況で外国へ向かおうとしている自分に、
伸子は改めて少し驚いた。
斜め前にダビデ。
その横には彼女。
これからも同行するのか、まだわからない。
ふと、二人の会話が耳に届く。
「ジェット、軌道を外れたら、日本中のブーイングよ」
「そんなに大きくないさ」
また飛行機の話かと思った。
けれど伸子は気づく。
二人はお互いを呼び合っていたのだ。
――「セスナ」と「ジェット」と。
「セスナ、次はどこに行くのか?」
「ジェットには無理なところ」
昨日のダビデのカラオケを思い出す。
前に座る二人は、風まかせの紙飛行機ではなく、
エンジンとブレーキのバランスを崩した
飛行体のようだった。
成人して三十年。
誰よりも高く飛べると誇っていた最新鋭のジェット機を、
ただのプロペラ機に変えてしまった――。
サードラブ?
そんな言葉が、ふと頭をよぎる。
日本を飛び立つのは成田だとばかり思っていた。
けれど出発は千歳だと、当日の朝に知らされた。
この長い旅が、本当に始まってしまった。
はじめての国際便。
わん。つー。すりー。
まずは――北海道、千歳へ。
2 キュンジェット
羽田から千歳に向かう飛行機は、
たまたまコアドゥのキュンジェットだった。
白い機体に黄色の模様が走り、
小さなリスのようなキャラクターが描かれている。
「なんて名前?」
孫の凛の顔を思い浮かべる。
答えるときのいきいきとした表情まで、想像できた。
ごぼうスープを入れてもらった、
そのキャラクターのカップも、
凛に見せてやりたいと思う。
キャビンアテンダントの美しい笑顔に、
似合う笑顔を返したくて、
空になったカップを差し出した。
「おいしかったです」
窓の外には、北海道の太平洋沿岸が広がっていた。
白く波打つ海岸線の向こうに、
雪をかぶった丘陵がうっすらと連なる。
畑には春を待つ緑の筋が、やさしく塗られていた。
小川や運河が光を反射し、
まるで絵の具で描いたようにきらめいて見える。
白いキャンバスに、
春色がそっと滲み始めているようだった。
何度も車で走った大地。
この空も何度も見上げたはずだった。
けれど、キュンジェットの飛ぶ姿は、まだ見たことがない。
青い空に黄色の機体が飛んでいく。
まるでキュンが菜の花畑から種をまいているようで――
なんて、かわいらしいことだろう。
キュンの話を孫の凛としていた時、
横にいた未希や加奈の顔も思い出す。
心の中で、地上に向かってそっと手を振った。
「ただいま。いってきます」
3 新千歳空港
千歳空港――
そこは、伸子の長女・加奈が毎日通う場所。
かれこれ十年以上になる。
この空港で加奈は、
飛行機の離着陸の安全を担っている。
大きな窓の向こうでは、
滑走路を行き交う機体が規則正しく動き、
地上スタッフたちの無言の指示が交錯していた。
思い返せば、コロナ禍は新千歳空港にとっても
大きな試練の時期だった。
国際線は一時ほとんど運休し、
観光客の姿も消えた。
国内線も、外出自粛や移動制限で大幅に減少した。
静まり返った空港の話を、何度も聞かされた。
けれど今、春の空港を歩く人々の足取りは明るい。
カートの音や、スーツケースのキャスターの響きが
軽やかに弾む。
大きな窓の外では、
建設中のラピダスの現場が小さく見える。
何機ものクレーン車が、そこを囲んでいる。
届かない工事音が、聞こえてくるようだった。
エルコンフィールドの完成も見ずに出発したのに――。
町が変わっていく姿に、思わずつぶやいた。
「浦島太郎になっちゃうかも」
「浦島太郎って、誰? WHO?」
隣の仲間たちが口々に聞き返す。
結局、伸子は最初から最後まで話すはめになった。
「昔々、助けた亀に連れられて……」
話し終えると、誰かがつぶやく。
「竜宮城は……それ、日本?」
ダビデは浦島太郎の話を知っているようで、
少し離れた場所で笑みをこらえていた。
4 腕組みしているダビデの背中
勝手に、彼の背中にドラマを描いてしまう。
「無題」
命が途絶えたあとに流れる永遠を問えば、
あなたが遠くへ行くことで、つながる軌道。
もう、消えない。
小さなプロペラ機の彼女は、「一緒に飛びたい」と言った。
「ああ」と答えてしまった。
小さなプロペラ機の彼女は、常にフル回転で、ついてきた。
その姿に、ジェット機は恋をした。
彼女の目的の大陸に着いたら、彼女は次の空へ向かった。
エンジンとブレーキのバランスを失ったジェット機は軌道を外れ、
ブーイングを受けながらも、彼女のいる丘へ向かう。
けれど、プロペラ機はいなかった。
つながる自由が、つながる――
――セスナ。
伸子は思った。
彼は、何らかの選択をして、この待合席に座っているのだと。
浮かんだ詩のドラマは、今回は、選ばなかったのだと。
窓の外では、滑走路を行き交う機体や、地上スタッフたちの無言の指示が静かに交錯する。
人々の足音やカートの音が、空港の広い空間に軽やかに響いていた。
ダビデは少し距離を置き、腕を組んだまま窓の外を見つめている。
彼の視線は、目の前のジェット機を越え、遠くの小さなプロペラ機を追っていた。
伸子もまた、視線を重ねずに、彼の背中の輪郭から漂う時間の流れを感じていた。
5 乗り継ぎの間に
飛行機の乗り継ぎ時間は、思いのほか短かった。
伸子は、長女がこの日休みだと以前話していたのを思い出す。
しばらく滑走路を行き交う飛行機を見つめてから、再び「虹の輪」の仲間たちの輪に加わった。
空港で働く人々の姿を見ているうちに、娘の同僚たちの顔が浮かぶ。
部屋に干されたあの制服が、ふと凛々しく思えた。
伸子は鞄からスマホを取り出し、アドレス帳をひととおり眺めた。
ラインを送りたい人たちの顔が次々に浮かんでくる。
でも、今は娘にだけでも送ってみよう——そう思い、指先を画面に添えたそのときだった。
「ねえねえ、伸子。」
前方からジェリーの声がした。彼はやたらと後ろを振り向きながら話しかけてくる。
「ジェット機がセスナ機に恋をしたら、どうすると思う?」
伸子は思わず顔を上げ、スマホの画面を閉じた。
唐突な問いだった。
「風邪でもひいたの?」
「きのう、歌いすぎちゃったかな?」
(きのう、あなたは歌わなかったじゃないの?)
「ねえねえ、伸子。
ジェット機がセスナ機に恋をしたら、どうすると思う?」
ジェリーは、いつもとは違う自分のかすれ声を、まるで楽しむかのように、同じ質問をくり返した。
「えっ? どういう意味?」
「僕だったら、乗客全員を降ろして、セスナ機を追うね。伸子は?」
今日のジェリーは、人懐っこい子犬のようだった。
「私は、ジェット機でもセスナ機でもないもの。
せいぜい軽自動車よ。ダイハツの。」
「軽自動車ね。」
「あっ、でもいいの。いつも彼を助手席に乗せているから。
桑田さん。スピーカーだけは、いいのにしたの。」
「やっぱり、伸子はセンスいいね。」
ジェリーは前を向き、スマホをいじり始めた。
伸子も再びスマホの画面に向かい、LINEスタンプの下に添える言葉を打とうとした。
数行を入力したところで、ジェリーがまた振り返ってくる。
「ね、伸子。どっちがいいと思う? こっちと、こっち。」
「そうね。」
今度は、軽自動車の相談だった。
一緒にスマホを覗き込み、あれこれ考えて決めた。
ふたりで前を向いたと思ったら——
「あ、でも、車庫証明とかいるんだっけ?」
「軽自動車なら、いらないんじゃない?」
すると、ジェリーは本当にうれしそうな顔をした。
やれやれ。
そう思ったときには、もう時間が過ぎていた。
ダビデは少し距離を置いて座り、窓の外を見ていた。
伸子の置いた青い紙袋の横で、彼の視線は手前のジェット機を越え、
小さな飛行機が、いままさに飛び立つのを追っていた。
6 シマエナガのスタンプ。
Message with a Snow Fairy(雪の妖精のメッセージ)
― A Silent Goodbye with a Feathered Smile
(羽根のような微笑みと静かなさよなら)
「ほんと、娘たちの既読マークって、ホノルルなみの時差よね。」
そんなママ友との会話をふと思い出す。
娘たちの既読マーク――
いったいどこの国の時間で点灯するのかしら。
そう思いながら、スタンプをひとつだけ送った。
──シマエナガの「行ってきます」
まもなく返ってきたのは、
「きをつけていってきてね。おかあさん。」の文字と、
夫と娘ふたり、そして凛の笑顔の写真。
長い列に並びながら、そっともうひとつ、
「ありがとう」のスタンプを押した。
A Whisper from Home at 30,000 Feet — with Love
(3万フィートの空の上、家からのささやき ― 愛をこめて)
7 白い恋人
「See you again」と言って、
明日香は青い紙袋を私に差し出した。
ひと足先に羽田空港を飛び立つことにした彼女は、最後まで笑顔を浮かべていた。
振り返ることなく、まっすぐに歩き出し、背中ごしにそっと手を振った。
ダビデの彼女が手渡してくれたお菓子は、「白い恋人」。
北海道を代表するお土産だというのに、
伸子はこれまで一度も食べた記憶がない。
羽田で渡してくれたのだから、
今や全国区のお菓子になっているのかもしれない。
バレンタインデーが近いある日、千歳空港を訪れたときのこと。
「チョコレートの玄関口」と大きく書かれたモニュメントの下に積まれていたそのお菓子は、
まるで白磁器のレンガのような風格を漂わせていた。
それでいて、包装にはレトロなタッチの手描き風イラストが描かれ、どこか温かみがある。
クラシカルな字体は、まるで詩集の表紙のようだった。
その「白い恋人」をしばらく手にしたまま、
日本を発つ飛行機の窓の外に目をやった。
荷物が次々と運び込まれ、
地上スタッフたちは黙々と作業をこなしている。
そして、飛行機が動き出すとき、彼らは一斉に頭を下げた。
彼らの動きを最後まで見届けなければ——そう思うと、呼吸するのを忘れた。
彼らは、最後の最後まで見送っていた。
その日は晴れていた。
けれど、千歳の一年を思えば、こんな晴天はむしろ珍しい。
吹きさらしの雪の日も、彼らは同じように飛行機を送り出す。
「ひどい風だった」「しとしと雨が降った」「きょうは、結局とばなかった」——
娘の天気の話が、十年ぶんよみがえる。
「ありがとう」
心の中で、ゆっくりとつぶやいた。
やがてシートベルトのサインが消えた。
伸子はようやく、青い紙袋のなかから「白い恋人」を取り出し、そっと封を切った。
「白い恋人たち」というフランス映画は、
1968年のグルノーブル冬季オリンピックを題材にした、映像美を重視したドキュメンタリー映画だという。
競技の記録映像に詩的なナレーションや音楽を重ね、
スポーツを通じた人間の美しさ、精神、自然との調和を描いているらしい。
見たこともない映画なのに、
そのタイトルだけで、美しい人の景色に胸がふるえた。
封を切る前から、感動する不思議なお菓子。
そして——
サクッとしたクッキーをかじると、
まろやかでやさしいホワイトチョコレートの甘さが、ふわりと広がった。
ずっと横で無言だったバラ子が、一言。
「これは、クッキーでもホワイトチョコレートでもないわね。
『白い恋人』という名のお菓子ね。」
“See you again” が、こだまする。
ダビデのカラオケ 完
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は 妙蓮寺「第58話 響香のランドセルと信号機」をお届け予定です。
物語はまだ続きます――
どうぞ次のお話もお楽しみに。




