第53話 研修室
バラ園の香りを胸に、伸子とバラ子は研修室へ戻る。
午後の教室で待っていたのは、異国の仲間たち、そして——
静かに始まろうとする、「にじのわ」の物語だった。
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第53話 研修室
1 薔薇の余香と午後の教室 ― にじのわの午後 ―
薔薇の香りをまだほんのりまとったまま、
ふたりは予定より三十分も早く研修室に戻ってきた。
部屋の前方では、ダビデ、トム、ジェリーの三人が座り、
ギターと、ダビデの恋人・明日香が声をひそめて談笑していた。
カラオケで少し打ち解けたとはいえ、
まだお互いをどう呼べばいいのか、
彼らの祖国がどこなのかもわからないままだった。
ふたりが部屋に入ると、自然と視線が集まった。
まだ、トレーナーの姿はない。
なんとなく張りつめたような空気を感じたそのとき、
ジェリーが「やあ」と声をかけてきた。
「君たち、もう仲良くなったんだね。どこに行ってきたの?」
横浜のみなと公園から町を見下ろしてきたと答えると、
「え、それなら僕も行きたかったな。声かけてくれればよかったのに」
と、あのときのカラオケの調子で、間に入ってきた。
「ねえ、写真見せて、見せてよ」
彼が歌った『ライオンハート』を思い出す。
不思議な力を持っていたあの歌。
そして、みんなで歌った『世界に一つだけの花』のあの一体感——。
まるで、ベタな日本のドラマの中に入ってしまったような感覚をおぼえた。
歌詞に出てくる「花屋」で働く響香のことを、一瞬、思い出した。
ただ、ふと気づく。
よくありそうで、実はそんなシーンを見た覚えがない——
異国の人たちと、あの曲を輪になって歌う場面を。
「一番なんて、決められないのよ。
私たち、一つ一つが素敵なんだもの。まるで、歌みたいでしょ?」
花束を抱えた響香の姿が、ふと目に浮かんだ。
そんなことを思っていると、研修室の張りつめていた空気が、
ざわざわと楽しげなものに変わっていった。
話題に出た「黒船」という言葉に、ダビデが反応した。
「くろふね」
ゆっくりとしたダビデの低音ボイスが、四文字を静かに響かせると、
視線が一斉に彼に集まった。
「坂本龍馬やったんだって。やってみてよ」
ジェリーがすかさず言う。
伸子は、名古屋の四間道でダビデに初めて会ったときのことを思い出した。
即興で侍になりきった、あの芝居。
あちこちで、同じような芝居をやっているのだろうか。
「高知……いや、土佐から来た坂本龍馬は、
黒船をどんな角度から見たがやろうの。
この角度なら、富士山と黒船がいっぺんに写るかもしれんねぇ」
秋に見た芝居と同じ口調で、ダビデは坂本龍馬になりきっていた。
あのときも、誰も笑っていなかった。
ただ、その熱だけが、静かに伝わってきたのだった。
「拙者も、行ってみとうなったぜよ」
バラ子は笑って言った。
「この人、すました顔して、けっこう変わってるわ。
伸子さん、こっちに座りましょ」
ふたりは少し離れて腰をおろし、再び薔薇の話を始めた。
「やっぱり、日本のバラの育種家って、
他の国にはない感性を持ってると思うの。見て、このバラ……」
教室はいつしか、まるで中学校の放課後のような空気に包まれていた。
そんなとき、トレーナーと、険しい表情の数人が部屋に入ってきた。
空気が、すっと冷えた。
おかまいなしに後ろを向いてしゃべっていたジェリーに、
全員の視線が一斉に注がれた。
ジェリーは話の途中で言葉を切り、最後に申し訳なさそうに、
「よろしくお願いします」
と言った。
そして、
"It’s nice to meet you. I’ll do my best to learn from you."
(はじめまして。あなたから学ぶのを楽しみにしていました)
と続けたが、それでも、前からの冷たい視線は変わらないままだった。
"There’s nothing I can teach you.
I hope you learn from the facts themselves."
(私はなにも教えられない。事実から学んでほしい)
しばらくのあいだ、重たい沈黙が流れた。
横浜では、メンバー以外の異国人とも行動を共にすることになるという。
その説明とともに、後ろの空いていた席に誰かが腰を下ろす音が響いた。
トレーナーは一番後ろに座っていたようだが、
最後まで振り向けなかったので、確かめられなかった。
「これは仕事だということを忘れないでください」
「今日の午前中、どう過ごしたか、すぐにレポートを提出してもらいます」
「業務中に勝手に写真など撮っていませんよね?」
伸子の胃が、ぎゅっと痛んだ。
ふと気がつくと、年齢を聞かれていた。
ダビデが56歳だというのは覚えているが、他の数字はぼんやりしていた。
子どものころ、授業中にお腹が痛くなったのは、どんな時間だっただろう。
遠い記憶をたぐりながら、ふと気づいた。
——私は、66歳。ここでは最年長だった。
◇
2 教壇と展望台と未来の背中 ― 横浜と水の記憶 ―
横浜が開港した年に生まれていたら、166歳。
横浜の3分の1ほどしか生きていないけれど、
あまり自分が成長していないような気がして、ため息が出そうになった。
展望台で、先生が子どもたちに語った言葉を思い出す。
「166年の変化って、すごいですね。
黒船が最初に来たころ、ここ横浜は小さな漁村、横浜村だったんです。
水道も電気もなくて、夜は闇もまた闇。
イノシシやら獣が歩いていたかもしれません。
黒船の影響を受けて発展し、でも関東大震災でまた焼け野原になって、
一からやり直した歴史もあります。
でも、あなたたちの一年一年の変化もすごいんですよ。
自分の体を町にたとえたら、できることがどんどん増えてきます。
さあ、みんな、まずはトイレに行きましょう。
手は必ず洗いましょう」
水筒をベンチに置き、子どもたちは笑いながら走っていった。
その小さな背中に、未来を感じた。
町は、勝手に変わるわけじゃない。
誰かの手や意志、歩みの重なりが、町を変えていく。
——私の背中も、いつか誰かの小さな未来になっていたらいい。
教壇の場所に立つ、虹色のネクタイをした白人男性が話す。
"Now that you’ve examined the water systems of each country,
I’m excited to see how your cross-border private team will make its proposals going forward.
You are the vanguard of the ever-continuing にじのわ."
バラ子が日本語にしてくれた。
「それぞれの国の水道事業を見ていただいて、
国を超えた民間のチームがこれから、どう提言していくか、楽しみにしています。
あなたたちは、これからづづく虹の輪の先導隊です。」
「私の背中も、いつか誰かの小さな未来につながっていったらいい。」
後ろのふたりが見ているかはわからないけれど、
そっと、背筋を伸ばした。
——その背中が、誰かの未来に届くことを願いながら。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
今回も読んでくださり、ありがとうございます。
横浜のバラ園から始まった「にじのわ」の午後。
伸子たちの物語は、まだ静かに続いていきます。
ページを閉じたあと、あなたの中にも、
小さな未来の芽が残りますように。
物語はまだ続きます――
◇◆◇
次回予告:「第54話 barako ―何出茂薔薇子とバラ子―」
◇◆◇
作者 朧月 澪




