第5話 栗丘の丘から 〜静けさと再会の手前で (2023年 春)
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第5話 栗丘の丘から 〜静けさと再会の手前で〜
北海道の空の下。
岩水沢から、エルコンフィールドのある北広嶋へ向かう道は、わずか五十分。
生活圏からは離れているが、響香にとっては、毎年何度も通る道だった。
栗山町の小高い丘を越えるとき、カーステレオから流れる曲が、その時々の記憶とともに心に刻まれている。
大地を静かに南へ下るその道には、音楽と一緒に、さまざまな記憶の断片がそっと息づいていた。
◇
室蘭本線の小さな踏切を渡り、無人駅を二つほど横目で見て、栗丘へ向かう。
丘のあるこの町には、侍ジャパンを率いた栗山監督が建てた球団の小さな記念館があるという。
だが、看板らしいものは見当たらない。
ちょうど『栄光の架け橋』がカーステから流れると、響香はその記念館のことを思い出し、
「まるで、母親がベビーシューズをおいているみたいだったわ。」
と、口にする。
◇
丘を越えると、名も知らぬ橋で一度だけ川を渡る。
そこから先は、気づかぬほどになだらかな下り道が続く。
左右には、季節ごとに表情を変える大地が広がる。
左手には太平洋。
右手には、日本海の水平線を思わせる色の濃淡の世界がある。
道はまるで川の流れのように、自然と太平洋へと導かれていく。
◇
ブレーキを踏むことのない、二十キロの直線道路が続く。
途中、スピードを緩める町がひとつある。――長沼町だ。
「ハンカチ王子がこの町に暮らしているのよ。」
黄金色が似合うこの町で、
ユニフォームを脱いだ王子が、新たな夢を追って、小さな種を淡々と蒔いているらしい。
◇
北広嶋の町には、愛犬・コユキとの懐かしい思い出があった。
コユキは、一人娘の妹分として、家族に迎え入れた犬だ。
初めて予防接種のために、北広嶋市の動物病院を訪れたとき、家族全員で出かけた。
その記憶は今も鮮明に残っている。
雪の日に迎えたため「コユキ」と名付けた。
もし晴れていたら、ジブリ映画のキャラクターの名前にしたかもしれない。
ワイパーの間から白い濃淡の景色を見ながら、ジブリの映画のサントラを聴いた。
コユキは家族の一員となり、やがて「コユキ姫」として家で君臨する存在になった。
◇
娘が結婚するとき、まるでコユキは涙を流して、その相手に膝を屈したように見えた――。
そんなエピソードが残っている。
「助手席は、愛人コユキのキープ席なのよ。」
響香は、そんなふうに伸子に語ったことがある。
◇
時は流れ、今ではコユキは助手席を響香に譲り、自宅で留守番をする老犬となった。
けれども、あの日だけは、カーステレオもかけず、音のない車を走らせた。
初めてエルコンフィールドへ向かった日は、助手席で流れる風景を、ただ静かに見つめるだけだった。
白い大地から、日差しの強い場所だけ茶黒色の土が顔を出す――
劇的な色の変化の時期だったはずなのに。
響香の記憶からは、その色さえも抜け落ちていた。
◇
運転席には哲郎がいた。
何か言おうとしていたのかもしれない。
けれども、行きも帰りも、とうとう口は開かなかった。
車を降り、目の前にそびえるエルコンフィールドを見上げる。
広大な敷地、空を映すガラスの壁。
すべてが新しく、誰もが希望に満ちて見えるはずだった。
しかし、響香だけは違っていた。
語ろうとすれば、その風景すらも別のものになってしまう気がして、言葉にはできなかった。
◇
第5話 おしまい
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次話へつづく
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あとがき 1
【資料ノート】
作中モデル
人物紹介:斎藤佑樹(ハンカチ王子)2006年の夏、甲子園で話題に。早稲田実業から日本ハムへ入団し、2021年引退。⚾ゲーム紹介斎藤佑樹選手(早稲田実業)は、2006年夏の甲子園準決勝で北海道代表・駒大苫小牧と対戦。延長15回を投げ抜き、1試合23奪三振という驚異的な記録を残しました。試合は引き分け再試合となり、翌日の決勝戦で早稲田実業が優勝。斎藤選手は「ハンカチ王子」として全国に名を広めました。
作中のエルコンフィールドのモデル
エスコンフィールド北海道2023年、北海道北広島市に誕生。日本ハムファイターズ本拠地。空と大地が広がるフィールドに、新たな夢が芽吹いている。
曲紹介 :『栄光の架け橋』(えいこうのかけはし)は、日本の音楽デュオ ゆず によって2004年にリリースされた楽曲
◇◆◇ あとがき 2◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
また次話で、お会いできましたらうれしいです。
◇◆◇
次回予告:「第6話へ エルコンフィールドの手前で ~世界で一番すてきなところ」◇
◇◆◇
―― 朧月 澪




