第45話 二人だけの新年会 ― 四間道の影
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第45話 二人だけの新年会 ― 四間道の影
日本を知る旅――
それが手のひらサイズではなく、地球儀を抱え込むような夢だとわかっていても、
ふたりの会話は、時を超え、いつものトーンで始まった。
「響香さんに出会えてよかったわ。二年にわたるこの企画について、会社や関係各所に報告書を出さなくちゃいけないんだけど……行き詰まっていたのよ」
「まず、公共の予算を使うって、大変なことよね」
伸子は溜息をついた。
今度もそれ以上のことは言わなかったが、
響香は、エッフェル塔の前でニッカと笑う女議員の写真を思い出した。
写真一枚で責められる彼女たちを哀れに感じながらTVを見ていたが、
まさか思いもよらぬ場所で、誰かのため息を感じるとは思わなかった。
「何も成果がなかったの。あちこちの国の水道インフラを見てきたけれど、
帰ってきたら、私のメモはうちの資料室にあるものばかり。
興味深い情報もあったけど、各国のプレゼンのスライド撮影は禁止だったし、
お互い自国の資料持ち出し禁止で集まっていたから」
「伸子さんもプレゼンしたの?」
「したわ。眼鏡を忘れちゃってね、大変なことになったの。
慌てて『眼鏡は顔の一部です!』って言ったら大爆笑。
それで、『あー、早く帰って卵かけご飯食べたい。それより納豆ごはん』って言ったら――
大ウソつき呼ばわり。穴があったら入りたかったわ」
独り言だけがマイクに拾われて、AIによって各国の言葉に通訳されたから、最悪だったのよ。
そのときの情景が、今も鮮明に胸に残っているという。
壇上での沈黙のあと、ふと口にしてしまった独り言。
会場に響いたのは、翻訳AIが拡声したその言葉だった。
“Glasses are a part of my face... I wish to enter a hole... I desire rice with raw egg. Correction: fermented soybeans.”
「What is fermented soybeans?」
「納豆? 腐った豆だろ? クレイジーだな……」
どこからか片言の日本語が聞こえた。
「エ? 生タマゴ、タベル人間、イルワケナイダロウ……」
ざわめきと、国際色豊かな笑いが波のように会場を包んだ。
それをきっかけに、会場の空気がふっと和らいだ。
張りつめていた議論がやわらぎ、次の発表者が笑いながら壇上に立ったほどだ。
——あの時、本当に穴があったら入りたかった。
帰国すると、後輩たちが冗談まじりに言った。
「ラブロマンスの旅? だったりして」
「名古屋の四間道で、もっと立ち止まっていればよかった」
と、伸子はぽつりと加えた。
実際、四間道に立ったとき、伸子も――
「すごいことができそうな気がする」と感じていた。
「四間道」と彫られた石柱をスマホで撮ったその瞬間、
あの道の成り立ちを、ゆっくり調べてみようと思ったのだった。
その胸の高鳴りが、あの写真の中に閉じ込められている気がする。
響香は、その写真を伸子から送ってもらっていた。
画面に浮かぶ灰色の石柱。
秋の日差しに長く伸びた影――スマホをかまえる伸子の影。
そのときの胸の鼓動まで伝わってくるようで、
響香はふっと息を吸った。
「しけみち?」と響香が聞くと、
伸子は名古屋の四間道の由来を語ってくれた。
やがてふたりは、江戸時代の町並みや文化について話し、
伸子が「井戸を見たことある?」と尋ねた。
「小学校の頃、駅から帰る途中にあったの。妙蓮寺のあたり」
「妙蓮寺? 駅名聞くと、『きくな(菊名)』っていう駅があって、その次が妙蓮寺だよね」
「きくな、なんて、おかしな駅名だと思わない?」
「そお?」
「だって――きくなよ」
そんなたわいない会話を交わしているうちに、
響香の心は次第に妙蓮寺に住んでいた頃へと引き戻されていった。
ふと、校歌の一フレーズが口をついて出る。
「まじかに見えるは横浜港〜 遠くに見えるは真っ白い富士山〜
ぼくらにむかって呼びかけてい〜」
お腹がすいたので、コンビニでパンを買った。
細かいお金がなくて、二人とも一万円札を出す。
紙幣は、新しいデザインの渋沢栄一だった。
響香は、ぽつりぽつりと記憶の中の妙蓮寺を語りはじめた。
それは、伸子の長い旅の物語が滝のように流れ落ち、
深い滝壺に沈み、やがて地下を伝っていく水のようだった。
下流のどこかで、新たな源流を生み出すような――そんな時間。
それは、過去という海へとそそぐ、最初のしずくのように。
ふと見上げると、
チカホの天井に映る光の帯が、二人の影をそっと包み込んでいた。
重なりあった影が、少しずつひとつになっていく。
その影は、心のの旅のはじまりを告げる合図のようだった。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
また次話で、お会いできましたらうれしいです。
◇◆◇
次回予告:「第46話 二人だけの新年会 〜妙蓮寺の水音と渋沢栄一」
―― 朧月 澪




