第35話 名古屋のコメダが、リフレインの朝 (長旅のイントロ1)
伸子の自宅のテーブルに立ち上るコーヒーの香りが、眠気の糸をそっと引き寄せる。
伸子はふたたびパソコンを開いた。しかし指先は重く、画面の白さだけが目に残った。
文字は生まれない。ひとつも。
パソコンも目も閉じ、ただ五分だけ――ほんの五分だけ――眠ろうとした。
すると、名古屋の朝がふわりとよみがえった。
その感覚に続くように、北海道のあの日の記憶も心の底から押し寄せてくる。
「そうだ、これだ。すべては、これがなかったからだ」
――手に取ったのは、あの感覚だった。
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第35話 名古屋のコメダが、リフレインの朝
1 胆振地震(2018年)の回想
記憶のピースは、思いがけない場所に、ひっそりとはまっているものだ。
あの夜。
夜が割れるような音がして、伸子は目を覚ました。
枕元の時計は、午前三時。
波のようなうねりが、床下から伝わってくる。
壁がきしみ、窓ガラスがかすかに鳴った。
その音が、体の奥で響いていた。
布団から出てテレビをつけると、アナウンサーが
「北海道で、非常に強い地震がありました。」
震源は、どうやら、北広嶋から車で一時間ほどの胆振地方らしい。
「こんなに近いのか」――声にならない息が漏れる。
一瞬、東日本地震を思い出して背筋に寒気がはしった。
棚の上の小物は、どれも落ちていない。
千歳と江別に住むふたりの娘たちの無事も、ショートメールで確認できた。
胸の中に、ゆっくりと安堵が沈んでいく。
その静けさに身をまかせるように、再び眠りに落ちた。
朝。
カーテンの隙間から差し込む光は、思ったよりもやわらかい。
いつもの日常は続いている――まだ、そう信じていた。
長女の加奈と、恵庭の花の牧場へ行く今日の約束を思い出す。
長女の休みとあわせてとった有給休暇。
どんな秋植えの球根を選ぼうか。
そんなささやかな想像の中に、日常の温度を感じて起きた。
だが、ついていたはずのテレビはもうつかない。
「ついていたはずなのに。」
炊飯器に手を触れると、ひんやりとしていた。開けると、お米がひたひたのお水につかったままだった。
冷蔵庫の中の灯りまで失われ、
その暗い庫内をのぞきこんでご飯の代わりになりそうなものを探した。
それでも、眠気のせいかまだ楽観していた。
「うちだけなのかしら」
外を見ると、隣のご主人がいつもと違う方向へ車を走らせていた。
新聞を取りに行くその動きまで、まだ日常の続きに思えた。
だが次の瞬間――携帯電話の着信音が静寂を切り裂いた。
画面には「北広嶋市ニコニコ水道管理株式会社」。
通話ボタンを押すと、亀田課長の声が、伸子の自宅で初めて響く。
「縣くん。悪いが、今日出勤できないか。地下鉄組が来られないんだ」
課長が“君”と呼ぶときは、いつも何かが起きている。
日常の呼び名――“のぶちゃん”も“縣さん”も――その瞬間だけ遠のいた。
「はい」
自然に声が出た。
とうとう何も口をすることなく、娘に短いショートメールをおくって家を出る。
「今日はやっぱり無理」
夫が造ってくれた四段の階段をおりるとき、
その横の花壇に目をやった。
春に植えたマリーゴールドが、朝の光にかすかに揺れている。
その香りが、一瞬だけ心を落ち着かせた。
通りの向こうで、制服姿の息子を送り出す隣の奥さんが声をかけた。
「大変ですね。今、お風呂に水を張ったところなんです」
「電気が止まっても、水は出ます。」
そう言いかけて、言葉を飲み込む。
言葉より先に、現実が追いついてくる気がした。
朝の冷たさが、口の中に静かに広がる。
車のエンジンをかけ、ラジオをつける。
非常時のニュースが、耳を通して全身に広がった。
道内全域、――網走の先まで停電。
その言葉に、思わず息を呑む。
信号の消えた交差点を、慎重に通り抜ける。
バックミラーの中のドライバーたちの顔も、みなこわばっている。
トランシーバーを持った警察官が交差点に立つが、数は足りない。
ガソリンスタンドには、すでに長い車列。
職場に着くと、電話が途切れなかった。
問い合わせが次々に入る。
「断水になるのですか?」――答えられない問いだけが積み重なっていく。
もしあのとき誰かが『この停電は四十六時間で終わります』と告げることができたなら、
少しは違った心で過ごせたのかもしれない。
けれど現実は、いつも“いま”しか告げない。
長い一日が終わり、闇の街を、車のライトに頼ってゆっくりと進んだ。
家に戻ると、娘たちと連絡をとりあえたのは夜明け近くだった。
「もうくたくた」
「電気、まだつかないね」
「車でスマホ充電したから、もう寝るだけ」
暗くなった空に、あの日の星がひときわ強く輝いていた。
広い北海道が、いま、この闇にすっぽりと包まれている。
あの時、伸子は北極星をさがした。
その小さな輝きが、
凍えるような夜の空気の中で、唯一、たしかにそこにあった。
――その瞬間、時間が揺らいだ。
記憶が、場所と季節を越えて、重なり合う。
星の光がまぶたの奥で溶け、
気づけば、名古屋の朝の光が頬を照らしていた。
パソコンを閉じ、五分だけ眠ろうとしたはずが――。
だがまた、リフレインは始まっていた。
次に目を開けると、
名古屋のコメダ珈琲の香りが、伸子を包み込んでいた。
2 名古屋のコメダの回想
あれから、いくつもの季節が過ぎた。
携帯電話はスマートフォンに変わり、
その画面に、再び「北広嶋市ニコニコ水道管理株式会社」の文字が光る。
今度は、名古屋のコメダ珈琲店。
札張店と同じ柄のマグカップから、
あたたかな香りがゆっくりと立ちのぼる。
隣の席の談笑、低く流れるBGM――
店内の音が、コーヒーの香りとともにゆっくりと伸子の周囲に溶けていく。
有給休暇の朝。
伸子のスマホが、テーブルの上で四度震えた。
バッグの中を探る。
モバイル充電器は持ってきていない。
指先に触れたスマホの冷たさが、
なぜか少し重く感じられた。
電話の相手は、職場の後輩・えりちゃん。
てきぱきとした声の向こうに、
いつもの明るさがのぞく。
その響きだけで、伸子の肩の力が少し抜けた。
「縣さん。今、ナゴヤですよね? 電話で少しだけいいですか?
月曜、初めて一人担当でして」
「大丈夫よ。金曜も月曜も休み取っちゃって、ごめんね」
言った瞬間、「ごめんね」が胸に残る。
それが“働き方改革”を遠ざけていると、
頭ではわかっていても、
口が先に動いてしまう。
抜けきれない“昭和風呂”のような感覚。
そう名づけた習慣が、まだ心のどこかに残っている。
みんなと同じ温度でいることが美徳だった時代。
ぬるま湯のような安心はあったけれど、
もうそれは、かつての優しさとは少し違うものになっているのかもしれない。
「どんな手順で……?」
えりちゃんの質問が、現実へと意識を戻す。
伸子の担当地域は、新球場・エルコンフィールドの開発が進む一帯。
地域の期待が集まる場所で、
もし水が止まれば、すべてが止まってしまう。
(iPad、持ってきてよかった)
バッテリー残量は36%。
(充電コード、二本持ってくるべきだったな……)
「じゃあ、十分快くらいでまた電話するね」
通話を切り、iPadで北広嶋の地図を開く。
頭を整理するには、やっぱりペンがいる。
カバンの中を探ると、「花人クラブ 幹事だより」が一枚見つかった。
白い恋人パークでボランティアをしていた仲間たちとの通信。
コロナ禍で会えないもどかしさを埋めるように、
響香と一年かけて作ったものだった。
裏面はメモにちょうどいい。
けれど――ペンがない。
(入れたはずなのに)
思い出す。
最後に使ったのは、響香と二人だけの幹事会のあとだった。
響香からもらったペン――
「キュンタちゃんペン」、
アイヌの帽子をかぶった北海道大使のキャラクター。
限定品で、わざわざネットで探してくれた、あのペン。
どこを探しても、見つからない。
今にして思えば、
このあと起こる出来事のすべては、
会社の電話でも、バッテリー残量でもなく――
「ペンがなかった」ことから始まったのだった。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
また次話で、お会いできましたらうれしいです。
◇◆◇
次回予告:「第36話 名古屋のコメダが、リフレイン ダビデの登場 (旅のイントロ 2)」
◇◆◇
―― 朧月 澪




