第34話 コメダと珈琲の余韻 (長旅のスイッチ2)
記憶のスイッチが開いた。
第34話 コメダと珈琲の余韻
◇1
人の波につれられて、たどりついたのは名古屋のコメダ珈琲店だった。
札張と変わらない、木のぬくもりを感じるコメダの内装。
新型コロナが少し落ち着き、日常と非日常がまだ混じり合っていた頃のことだ。
◇2
横のテーブルの会話が、ふと耳に入る。
私と響香さんのことを映しているような、とりとめのない話。
コロナで会えなかった時間の喜びが、ことばの端々にあふれていた。
二人は名古屋の住民ではないらしい。
新幹線で昨日到着したという。
「うちの町にはコメダがなくてね」
名古屋のモーニング文化を楽しそうに話している。
◇3
片方の女性は、一人息子が名古屋の大学に通っているそうだ。
「学生食堂で100円の朝食が食べられる。それだけで安心できる」
もう一人に向かって、
「あなたの息子さんも名古屋の大学に通わせたら?」
笑い合う姿を見て、伸子の胸はじんわり温かくなる。
偏差値よりも、子の食生活を思う母心。
そして、“からの巣”になった自分の暮らしを支えようとする、心の防波堤。
ふと、大学生の娘に、焼きっぺやどんぐりのパン、野菜とーー食べ物ばかりを詰めて送ったダンボールを思い出す。
あの時の自分もまた、同じ気持ちでいたのだ。
その気持ちが、二人の会話ににじんでいた。
◇4
ふと、片方の持ち物に目が止まる。
サザンのグッズだ。
「やっぱりね」と、思わず微笑んだ。
今朝、同じ光景を見た誰かと、こうしてつながった気がした。
昨夜の興奮がふたたび胸に戻る。
◇5
昨日。
名古屋城、四間道、そして水道記念館をかけあしでまわり、
日没後にコンサート会場、名古屋のバンテリンドーム ナゴヤ(旧ナゴヤドーム)に向かった。
いつもは同行する娘たちも、今夜はいない。
初めて一人で会場に向かった桑田佳祐さんのコンサート。
あの、ステージに光が差し、音があふれた瞬間。
「お互い元気に頑張りましょう!」を全身で受け止めた。
◇6
会場を後にして着いた渚ホテルでは、興奮して眠れなかった。
それにもかかわらず、朝はすっきり、新しい空気に包まれていた。
恋をしたわけではない。
でも、伸子の旅はまるで恋だった。
人でもなく、物語でもなく、この地球に恋をしたような——
初めて触れたメロディーの風に、ただ身をゆだねた。
◇7
「白い恋人達」に続いたコンサートのラストは、「100万年の幸せ!!」。
旋律が未来を包みこむように、会場を満たしていた。
胸に残る幸福の余韻が、この珈琲店にも静かに満ちていた。
少しぬるくなったコーヒーを手に取る。
ふとテーブルを見ると、スマホがカタカタ揺れていた。
画面には「北広嶋にこにこ水道」と表示されている。
旅行気分は、そこで途切れた。
◇8
会社からの電話は皆無だ。
——あの日を除いて。
2018年9月6日——北海道胆振地震の日。
伸子の脳裏に、あの暗闇の北海道がよみがえる。
地下鉄を使う同僚は出勤できず、信号の消えた道路を、息を詰めて進んでいた。
すれちがうドライバーの表情は、皆こわばっていた。
交差点に警察官の姿もあったが、到底人数は足りない。
あの日を思い出して、伸子は体が緊張でこわばった。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ 次回予告 ◇◆◇
第35話 名古屋のコメダが、リフレインの朝
記憶の扉が開いた。
けれど、2018年と2023年。
記憶の器は、揺れる。
そう、ゆれる。




