第33話 波に委ねて──名古屋駅の朝(長旅のスイッチ1)
長旅の記憶スイッチをいれた。
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第33話 波に委ねて──名古屋駅の朝
◇1
吾輩は、人間である。
I am human.
名前もちゃんとある。
それなのに、どうして言葉を、こんなにも不器用にしか紡げないのだろう。
キッチンを背に日記帳を開く。
◇2
2024年12月30日(大晦日前日)
報告書を書かなくちゃいけないのに、なかなか書けない。
どうしよう……。
伸子はこの二年を振り返った。
パソコンの横に日記帳を出して、ぱらぱらめくる。
あれは、もう二年前のこと。
2022年11月21日──はじめての一人旅。
名古屋の天気は、朝に雨が降り、その後晴れた。
最高気温21.6度、最低気温11.9度。暖かい陽気だった。
コンサートは、もう最高。
2022年11月22日──昨夜は遅くに寝たが、早く目が覚めた。
早々にホテルをチェックアウトし、名古屋駅に行く。
もう、いろんなことがありすぎて、書ききれない。
◇3
(名古屋駅、どんなんだっけ?)
札張駅の朝は、一方の方向に進む。
名古屋駅は、右へ、左へ、そして上下へ──
人々が縦横に、まるで波のように行き交っていた。
駅というより、光の帯と足音が交錯する未来都市の中枢に立っているようだった。
人の波の隙間に立つと、自分だけが時間の流れから取り残されているかのように感じる。
名古屋駅も、札張駅と同じく、人々はマスクをし、スマホをポケットに入れ、
自信に満ちた足取りで歩いていた。
少し雨が降っていて傘を持つ人も多かったが、
そのことさえも、流れに狂いはなかった。
札張駅では、外国人がスーツケースを引き、行き先を迷っていたりして、異国から来たとすぐに見分けられる。
けれど名古屋では、肌の色も言葉も違う人々が、波の流れにのり、みな都市の巨大ターミナルのうねりに溶け込んでいた。
──あの時の伸子こそ、ひとり異国人だった。
◇4
2025年1月4日 (正月明け)
年を明けても、伸子は変わらずキッチンを背に腰かけていた。
朝からずっと同じ場所に置かれている新聞に目をやった。
そして、この日も、日記帳を開いて日付を書いた。
報告書は、相変わらず十行のまま。一字も進まない。
画面に「kkkkkkkkkkkkkkkkkkkk」と二十回打ってはデリートした。
五年分書けるこの日記帳に、書けるのはせいぜい数行。
しかも、虹の輪の旅にはこの日記帳を置いていったため、
一年半分が空欄になっていた。
白紙の部分にあふれる思い出と言葉。
どの角度から見ても、うまくつむげない。
──あの秋の出来事、はみ出してでも書いておけばよかった。
◇5
記憶は、また2022年11月22日に戻る。
前日のコンサートの興奮は残っているのに、名古屋駅構内で立ち尽くしていた。
どの人の流れに乗ればいいのか、まるで分からない。
そういえば──ベンチがない?
スマホと手帳を取り出して、腰を落ち着けて考えたかった。
けれど、こんなに立派で素晴らしい駅なのに、座れる場所が見当たらない。
これでは、孫を連れてくるのも、老いた母を連れてくるのも難しい。
……やっぱり、一人で来て正解だったわ、と胸の中でつぶやいた。
◇6
前日のコンサートで隣に座った人が言っていたことを思い出す。
「札張駅って、光がたっぷり入るし、駅全体が暖かくて素敵ですね」
そう言われて、初めてそのありがたさに気づいた。
札張駅構内のあのベンチ。
黒いストーブの前に置かれていて、近すぎると熱くて汗をかくけれど、どこか懐かしい。
上に置かれた古いテレビでは、いつも地元の情報番組が流れている。
馴染みのアナウンサーが穏やかな声で「道内の天気」を伝えるその姿は、
長年見慣れた安心感そのものだった。
座って一点を見つめたい感覚に、札幌のあの空間が恋しくなる自分がいた。
一泊二日の旅で、ホームシックを味わうなんて、と小さく笑いながら、伸子は再び人の波に身を委ねた。
それが、長い旅の入口だった。
そのことに、あの時はまだ、気づいていなかった。
深夜のコーヒーを飲みながら、伸子は名古屋のあの日の記憶をたどっていく。
* *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ 次回予告 ◇◆◇
次回 第34話 コメダと珈琲の余韻 (長旅のスイッチ 2)へ つづく
名古屋の一人旅のことを思い出そうとしているのに、なぜか思い出すあの日のこと。
どうか、またおあいできますように
朧月澪




