スマホの夜会(第一夜)
「もっと、おとうさんのはなしをきかせて、じゅういさん。」
伸子は、そっとささやいた。
台所には、記憶の匂いが残っている。
食器が触れ合う音、缶を開ける小さな音、
遠くから聞こえてくる「おやすみ」の声。
湯飲みひとつからよみがえる会話、
記憶の中で、いまも道案内をしてくれているような存在。
誰かと語りたくなる夜。
あるいは、ふと誰かを思い出したい夜。
そんなとき──
通りかかった人も
そっと、この話の輪にはいってくれたら嬉しい。
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
スマホの夜会(第一夜)
1 うさぎのカップ
冬の気配が、まだ言葉にならないまま空気にまじっていた。
響香の前には、湯気をゆらす湯飲みと、冷たい酎ハイの缶。
あたたかさと冷たさ──そのちぐはぐさが、今夜はなぜか心地よい。
湯飲みには、煙突から細い煙をのぼらせる小さな家が描かれている。
その前では、マフラーを巻いた二匹のウサギが、テーブルをはさんで向かい合っていた。
湯気がゆらぐたび、
絵の中の小さな煙までも、ほんの少し揺れたように見える。
カラン──。
「……このカップ、伸子にもらったんだったね」
声が空気に落ちると同時に、
視線は、湯飲みの青い線へと吸い寄せられた。
「札幌のチカホを歩いてたとき、ふたりで、あの作家さんに出会ったんだよね」
白い磁器に染み込んだ青い線が、冬の空気のように静かに揺れていた。
それを見つめながら、響香は胸の奥の寒さをひとつ手放すように息をつく。
2 ひつじのうわごと
伸子が、少しスマホから離れる気配がした。
響香は、ひとりごとをスマホにそっと語りかける。
「イノシシはね、本当にヒツジのことを可愛いと思ってた。
もちろん、鳥や馬のことも大切にしてたけど」
「ヒツジが困っていたら、席をひとつ空けて
『こっちにおいで』って言える人だったの」
「……でも、心配していたのは、いつも鳥や馬のことばかり」
「ヒツジが本当に困ったときだけ、一緒になって考えてくれた。
でも、そんな話をしたら鳥も馬もきっと言うのよ」
『いつもヒツジのことばかりじゃないか』
「……それでもイノシシは何も言わなかった。ただ前を見て、狩りをしてたの」
扉の向こうから、家族の「おやすみ」という声がかすかに聞こえる。
「お酒、持ってきたわ。お待たせ」
伸子が戻ってきた。
3 車の思い出
「子どものころは車酔いばかりで、遠足も苦い思い出だったな」
幼い筆跡で「上野響香」と書かれた、
上野公園の社会学習のしおり。
坂の上では、銅像の西郷さんが犬を連れて立っていた。
『うえの、うえのだぜ!
お前、酔ってんじゃねーの?
げろげろの香りなんて、えんがちょ!』
「……あれ、誰だったかしら。
後ろのエンドウ?」
場面は台所に戻り、
伸子が小さく笑った。
「ふふっ、そんなことまで覚えてるのね」
「名前も、画数が多すぎて。
小学校では一番最後まで書けなかった」
「でも、みんな“きょんきょん”って呼んでたんでしょ?」
響香は目を細め、
少し照れたような声になる。
「そう。本物のキョンキョンが出てきてからは、誰も呼ばなくなった。
父まで。
……ほんとは、私が初代きょんきょんなのに」
その言葉に、伸子がゆるく笑い、
湯飲みの湯気が静かに上へとのぼっていく。
冬の夜に、
ふたりの笑い声が少しだけ温度を上げた。
4 じゅういの七大不思議
響香はダイニングテーブルに腰をおろし、
湯呑みに描かれたうさぎたちを両手でそっと包んだ。
ふと奥の和室に目を向ける。
灯りを落とした部屋で、額に入った父の似顔絵が
にやけているように見えた。
その視線を胸の奥にそっと落とし込み、
彼女はスマホへ向き直って語り出した。
「父はね、いつも狩りをしてた。
イノシシみたいに──十の牙を持って」
「十の牙?」
伸子が、ゆっくり聞き返す。
響香は照れたように目を細めた。
「そう。“十猪”。
母が笑いながら数えていた、父の七不思議のひとつ」
その言葉に呼応するように、
画面の奥がゆるく滲む。
──休日に、からんと音を立てる下駄を履いて歩く父。
──傘をなくすからと、母が「上野十猪」と白書きした傘。
──中東に持っていった、薄緑のスーツケース。
どれも古いフィルムのように色褪せて、
しかし不思議な温度を宿したまま浮かび上がる。
「父は、一切メモを取らなかったんだって。
予定も番号も、全部覚えてたの」
伸子が息をのむ気配。
「それはすごいわね」
「そうでしょ?」
響香の語る声の向こうに、
“記憶だけを道しるべに歩く男”の背中が、静かに映る。
「まるで体の中に、カレンダーが入ってるみたいね」
響香は肩をすくめ、
少しだけ寂しさを紛らわせるように笑った。
「娘の私は、主人の番号ひとつも覚えられないのに」
伸子がやわらかく息をもらす。
「それが普通よ。スマホがなかったら、
わたしだって何ひとつ思い出せないわ」
その笑いは、湯飲みの湯気のようにふわりと広がり、
冬の台所の灯りがまた少し、温度を取り戻した。
5 中東を駆け巡る父
響香はスマホを手にしたまま2階へ上がり、視線を窓の外へ漂わせた。
冬の空は淡く白み、公園のオレンジの街灯が、舞い降りる雪をひとつひとつ金色に照らしていた。
「40代のころ、父は中東を飛び回ってたの。
でも、そんなにさみしいとは、思わなかった。
ただ、ハイジャックのニュースが流れるたびに、
知覧のおばあちゃんから黒電話がかかってきたのは覚えてる」
スマホの向こうで、伸子の息づかいがかすかに聞こえた。
「ホテルで、枕元でスーツケースを切られたって話もあったわね」
声が途切れるたび、映像が浮かぶ──
砂漠を背景にしたホテル、重い扉の音、閉まったスーツケースの金具の光。
「羽田に迎えに行っても、『おかえり』さえ言えなかったけど……
お土産だけは、必ず持って帰ってきた」
ピスタチオの缶。
小さな人形。
ピラミッドの前で、ラクダに乗る父の写真。
砂漠も、ピラミッドも、ラクダも──すべてが、あのとき初めて目にしたものだった。
まるで映画のワンシーンの中に父が生きているようで、冷たい風と砂の匂いまで、幼い響香の胸に焼き付いた。
静かな冬の夜の中で、響香はひとつひとつをそっと思い出す。
長旅を終えた伸子の語らいがあったおかげで、記憶の中で父はまだ旅を続けているように感じられた。
6 グーグルナビを内蔵した父
響香はスマホを手に、今度は娘の使っていた学習机に腰を下ろす。
「父はね、地図なんていらなかったの。一度通れば、忘れない人だったの」
伸子の声が、かすかに重なり、響香の胸の奥に柔らかく響く。
「246とか横切って、だれもしらない網目の道を、するするといくのよ」
「まるで、グーグルナビを内蔵してるみたいね」
春の横浜の街。三回忌に向かう車の中、ナビの声が父の記憶をなぞるように曲がり角を告げる。
思わず、車中のみんなで笑ってしまった。
「それ、きっとお父さんが運転してたのよ」
心の中で、父はまだ車のハンドルを握り、春の街を自由に駆けているようだった。
7 寿司屋「タフ」へ
「グーグルナビが父みたいだねって笑ったとき、偶然着いた回転寿司屋が、私の手帳に書いてあったお店だったの」
「どんなお店?」
「テレビで見た『タフ』っていうお店よ」
「横浜に行くとき、行ってみようかしら。メモしておくわ」
「そう、あざみ野の駅前。けっこう混むけどね」
冬の光が差し込む窓の外、伸子の声と響香の笑いが静かに重なる。
父の記憶と、時を超えた糸がそっとつながっていく。
響香は、スマホをそっと胸に引き寄せた。




