第29話 凛の誕生日会③〜ノックしてはいけないドア(凛の誕生会・最終話)
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第29話 凛の誕生日会〜ノックしてはいけないドア
初めて会った少年に、伸子は尋ねた。
「ねえ、その“凛の壁”って、どんな感じなの?」
少年の話によると、凛の壁の写真は、いつしか誰かのインスタに載せられ、ちょっとした話題になったこともあるという。
秘密基地につくったその壁は、今ももちろん残っている。
けれど少年の話では――
たくさんの人が覗こうとすると、なぜかいつも、やっかいなことが起こるらしい。
彼は考え抜いた末、「ノックしてはいけないドア」というものを作った。
「どうして、ノックしてしまったんだろう……」
少年がつぶやいた瞬間、凛は何かに気づいたように、そっと言った。
「……ごめんね。」
◇
伸子は、幸せな時間を噛みしめながらも、
思ったよりあっさりとそのひとときが終わったことに、少しだけ寂しさを感じていた。
凛の誕生会は終わった。
スマートフォンの画面には、湯気の立つマグルーバを前に歓声を上げる、凛と少年の姿。
伸子は、それを何度も繰り返し再生した。
伸子は響香からもらった薔薇を、自分のバラとともに花瓶に入れてテーブルに置く。
夫が部屋に入ると、外からの冷たい空気とともに、バラの香りがふわっと風に漂った。
スパイスの香りにバラの香りが重なり、部屋全体がまるで小さな寺院のようだった。
バラの名前は――アンジェラとポンポネッラ。
「ポンポネッラは、ドライにすると素敵よ」
響香の声が耳に残る。
明日、この香りの中でバラを干してみよう。
◇
スマホでキッチンのステンレスと花瓶の花の写真を撮った。
そのままフォルダを開き、過去の写真をめくっていく。
海外視察中の写真は、ほんの数枚。
その道中で、凛へのお土産になりそうなものを何度も手に取った。
けれど、公費での旅という意識が、どれも棚に戻させた。
「実家に地元のお菓子を送るぐらいは、OKということにしよう」
そう言って仲間を納得させ、じぇりーと一緒に買ったお菓子。
――じぇりーは今、あのお菓子を食べているだろうか?
部屋に積まれたお菓子の箱に囲まれ、ひとりお菓子を食べている姿を思い浮かべた。
伸子は急に、じぇりーに会いたくなった。
泣いて、笑って、けんかして、
「グッバイ」さえ、うまく言えなかった旅の仲間たちに――
Thank you from the bottom of my heart.
(心の底からありがとう)
◇
その時、伸子のスマホが震えた。
「非公開。凛が作った壁。」
少年の母が、未希のスマホを介して送ってくれたのだ。
それは、スライドショーになっていた。
海外のお菓子の箱やキャンディーの包みで飾られた秘密基地の壁。
どの写真も、差し込んでいる光を受けてモザイクのように美しい。
――じぇりーのルールあってこその壁。
いつか彼らに再会したとき、この壁の写真と動画を見せてあげよう。
いろいろな国の文字と色彩の箱でできたその壁は、
どんな観光地の壁画よりも、美しかった。
◇
一枚の写真をスクロールすると、
見慣れない「¡」――逆感嘆符が、心にふいに飛び込んできた。
くるくるとしたアラビア文字のレシピは、まるで踊るように動き出し、
見慣れたはずの漢字さえも、違う生命を帯びていた。
子どもたちは今、新しい世界の森の中にいる。
◇
凛の誕生会を考えたのに、
なんだか自分がたくさんのプレゼントをもらってしまったな――
花瓶のバラを見つめながら、そう思っていると、
スマホがまた震え、画面には響香からのLINEが表示された。
バラを抱えた女の子のスタンプ。
「おばあちゃんになって7歳だものね。
7さいのおばあちゃん、お誕生日おめでとう。」
窓の向こうでは、アンジェラのバラが数輪、暗がりの中で揺れていた。
まだ見えているうちは、カーテンを閉めたくなくて、電気もつけずに過ごした。
「まだ冬囲いには早いわよね」
「寒さも必要」
旅先でのバラ子の言葉が、頭の中でリフレインする。
――そういえば。
インド綿で凛に、秘密基地用ののれんを作っていたのに。
渡すのを忘れていた。
「まあ、いいか」
◇
夕刻、伸子はそっとストーブのスイッチを入れた。
今シーズン最初の、凛の小さなおどろき。
先々週、彼女が言った言葉。
「ストーブさん、生きてるみたい。」
オレンジの光がぽうっと灯り、
部屋がゆっくりと温まっていく。
「これ以上の誕生会は、ないわ」
伸子はゆっくりと立ち上がり、窓のガラスに顔を押し当てた。
外は闇に包まれ、冷たい雨がしとしとと降りはじめている。
その一方で、台所の花瓶に生けられたアンジェラとポンポネッラは、昼間の光を一点に集めたかのように、静かに輝いていた。
室内の温もりと、花の光が、雨に濡れた庭の闇とそっと対照を成している。
深呼吸をひとつして、伸子はやさしくカーテンを閉めた。
後書き
読んでくださりありがとうございます。
第27話〜第29話
凛の誕生日会(①〜謎のレシピ ②〜針と糸 ③〜ノックしてはいけないドア)
は、ここでおしまいです。




