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台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO  作者: 朧月 澪(おぼろづき みお)
左ウインカーをいく伸子

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第23話 アイスの最後の一口

台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO

第23話 アイスの最後の一口


10月6日の夜。

伸子は、部屋にまだ残る中東のスパイスの香りを深く吸い込んだ。


夫が食べずに残したアイスをそっと口に運び、

ギュッと詰まった一日を思い返す。


思わず響香へLINEを送った。

返信は明日になるだろう――そう思っていたのに、

すぐ既読がつき、つづけて「いのしし」のスタンプが10個届いた。


なんだか今日のドジャースの大谷翔平のスイングみたいだ、

伸子はクスッと笑った。


野球を観戦したことは、これまでほとんどなかった。

凛と静かに過ごそうと思っていたのに、

夫は部屋に入るなり無言でテレビをつけた。


――あいかわらず無粋な人だ。


そう思いながらも、気づけば

ドジャースとパドレスの試合にすっかり引きこまれていた。


凛はこの夫――つまりおじいちゃんと、

何度も野球を観てきたのだろう。


「ママがお買い物に行くと、大谷翔平がうつるんだよね。いつも。」


そう言っていた凛の声が思い出される。

留守番のあいだ、ふたりでこうして試合を観ていたのだ。


町に球場ができたおかげで、

凛はいつの間にか野球のルールを覚えはじめていた。


大谷選手がカキンとバットを振ったあとの

一瞬のボールの軌道を見逃さないように――

伸子はそんなふうに思いながら画面を見つめた。


響香のLINEには、猪のスタンプが10個。


「昭和10年、いのしし年で、十猪じゅういなの。」


昨日、響香の父の話をしたときの

なつかしそうな表情がよみがえる。


続けてパンダのスタンプが2個。


「UENO JUIうえのじゅういで、昨日の伸子さんの

『上野動物園の獣医さん?』っていうの、笑ったわ。

なんだか父とパンダを見に行ったことまで思い出しちゃった。」


「カンカン、ランラン。」


さらに人の形を思わせる“ひとひとひとひと”のスタンプ。

昨日の夢のような時間が、ふたりの中で再生されていく。


メモリーの続きのようにLINEが続き、

「凛ちゃん、元気だった?」と響香が問う。

伸子は、その日の出来事を語り始めた。


「ターメリックの香りで満ちた部屋で、

大谷選手とダルビッシュの戦いを観たよ。」


試合が終わると、凛は自転車の練習を見てほしいと言い出した。


「探検は、あっちだよ。」


エルコンフィールドの方向を指差す。

補助輪を外したばかりで、目標は実家からエルコンまで行き、

アイスを買うことらしい。


よたよたした表情が、

ふと自信に満ちた顔に変わる瞬間を見た。


その感動を響香に言葉で伝えようとしたが、

なかなかうまく言えなかった。


響香も、家で同じ試合を観ていたようだ。


「私、一人でダルビッシュに花を持たせてあげたかったな。」


「そんな花、重たくてダルビッシュくらいしか持てないよ。」


自然にLINEは電話へと移り変わっていったが、

響香がふいにこぼした言葉がひっかかった。


「願いが叶っても、それを手放さなきゃいけないのが辛いんだ。」


今日の歓喜を話しているときでさえ、

その一言が胸に刺さる。


――いったいそれは何のこと?

どのタイミングで聞けばいいのだろう。

伸子はそう思いながら耳を傾ける。


願いが叶うことは、本来祝うべきことだ。

けれど、響香が抱える“その後”の感情は、

簡単には整理できないらしい。


昨日、響香が「気になっている」と言っていたメモを

翻訳アプリで解読した。

それは中東のレシピだった。


響香は、お父さんが中東に出張したときの話をしてくれた。


「私、勝手に作っちゃってよかったかな?」

そう尋ねると、


「なんで?全然そんなことないよ。

父なんか、余裕でお墓の中で喜んでるって。本当に。


コロナが始まるか始まらないかの頃に

あっけなく骨になっちゃったけど……。

ひ孫に庭の花を供えてもらって、ちゃんとお葬式はできたの。


でもその後は非常事態宣言で、

四十九日も一回忌も三回忌も、ぜーんぶまとめて“フルコース”。


でもそれも父らしいっていうか……。


結局コロナの間も、父は母や弟と同じ屋根の下にいたのよ。

亡くなった後も、いつも通り一緒に過ごしてるみたいに、

時間を共有していたんだから。」


そう語る声は、どこか明るく、どこか寂しげだった。


「響香、無理に笑わなくてもいいんだよ。」


伸子がそう言うと、

しばらく沈黙があり、

少し涙声で 「うん、ありがとう。今日は大丈夫。ありがとう、伸子さん。」

と返ってきた。


「それにしても、そのレシピの記憶、

私にはまったく無いのよ。

『きょうか』とは書いてあるのに。」


母はいつも、父のことも響香のことも

「目に入れても痛くないほど可愛い」と言っていたという。


でも、字を教えてもらった記憶もなく、

どこか怖かった。


「それなりに。子羊がいのししを見るみたいに、父を見てたわ。」


「これなーに?」なんて

聞いたことすらなかった、と響香は語った。


「子羊はいのししに聞きに行かないでしょ?

もう、怖くてしょうがなかったんだから。」


「童話ができそうね。」


思わず伸子はそう言っていた。


「お酒飲んでいい?」


響香とお酒を飲むのは長い付き合いの中で初めてだ。

伸子は、一人の寝室へアルコールとスマホを持ち込んだ。


願いがかなうこと――

それが素晴らしいことだと信じていた。


けれど、響香のように

“かなった後に手放す”という難しさに向き合うとき、

その複雑な感情は、簡単には言葉にできない。


伸子は静かに考え込んだ。


最後のアイスの一口は、もう溶けていた。

引き出しの奥に紛れていた

子ども用の小さなシルバーのスプーンですくう。


やわらかく、甘く、どこかあたたかい味がした。


最初に買った、加奈のスプーンだった。

加奈、未希、凛――三人の離乳食を

このスプーンで口に運んできた。


「ちょうどいいわ。」


慌ただしい日々の中、

とまどいや喜びにそっと寄り添ってくれたスプーン。

いつも願いを叶えてくれた気がする――

伸子はそう思った。


溶けかけたアイスの甘さが、胸の奥で静かに広がっていく。

それは、これからの小さな日々を照らす

たしかな灯りのようにも思えた。


― 第23話 おしまい ―


* * *


静かに溶けた一口の記憶を

 次話へつづく


* * *

◇◆◇ あとがき ◇◆◇

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

また次話で、お会いできましたらうれしいです。

◇◆◇

次回予告:挿話   秘密基地

第24話《挿話》凛の秘密基地

第25話《挿話》 秘密基地のその後

第26話《挿話》にんぎょひめ ― ひと晩、孫の凛と語る物語

第27話 凛の誕生日会①〜謎のメモの答え


―― 朧月おぼろづき みお

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