第16話 虫たちの行列の正体〜きょうか ㊙ 1972・11・7
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第16話 虫たちの行列の正体〜きょうか ㊙ 1972・11・7
「あっつ。」
文字が、左から右へと流れていく。
伸子のスマホの中で、小さな渦がぐるぐると回っていた。
まるでタイムトンネルの入り口のようだ。
流れる文字は、生き物のように四角い枠の中を泳いでいた。
──まるで、虫たちの行列。
「翻訳してみる?」
長旅を経た伸子は、テレビのリモコンを扱うように翻訳アプリをすいすいと操った。
すると、文字が彼女の指先に応えるように、画面の中で動き出す。
響香も身を乗り出し、スマホを覗き込む。
「虫たちの行列……? 象形文字?」
そう思っていたそれは、やはりアラビア文字だった。
翻訳前 (アラビア語)
300 جرام من لحم الدجاج
1 حبة باذنجان
1/4 زهرة (قرنبيط)
1 حبة بطاطا
1.5 كوب من الأرز (يفضل أرز بسمتي)
1 حبة بصل مفرومة
1 حبة طماطم مقطعة شرائح
3 أكواب من مرق الدجاج
ملعقة صغيرة من الكمون
نصف ملعقة صغيرة من القرفة المطحونة
نصف ملعقة صغيرة من الكركم
ملح حسب الرغبة
زيت زيتون أو زيت نباتي
مكسرات محمصة (للتزيين)
بقدونس مفروم (للتزيين)
思わず、ふたりの声が重なる。
「じゃがいも?」
慌てて口を押さえる。
視線を合わせないようにしながら、こっそり店の人の様子をうかがった。
翻訳後(日本語)
ジャガイモ 1個
米 1.5カップ(バスマティ米が推奨)
玉ねぎ(みじん切り) 1個
トマト(スライス) 1個
チキンブロス(鶏だし) 3カップ
クミン 小さじ1
シナモンパウダー 小さじ1/2
ターメリック 小さじ1/2
塩 適量
オリーブオイルまたは植物油
ローストナッツ(飾り用)
パセリ(みじん切り・飾り用)
「レシピ?」
「へえ……ほんとだ。謎のレシピ。」
「翻訳アプリって、すごいね。」
伸子が少し照れくさそうに笑う。
「六十過ぎたって、成長するのよ。」
「私なんてインスタだって閲覧専門よ。」
「私もよ。やっとけばよかったって思うわ。」
アラビア文字の余白には、英語の筆記体。
[Jyui Ueno] とある。
伸子はスマホでそのまま検索していた。
「上野の獣医さん……からもらった?
これ、年号は……1972年?
ああ、パンダ? パンダのごちそう?」
小声でつぶやきながら、謎解きをはじめる。
すると、響香がくすっと笑った。
「それはない。それは絶対にありえないわ。」
伸子はその様子に、逆にあっけにとられる。
響香は今度、しみじみと声を落とした。
「これは、間違いなく父のサインなの。何度見ても懐かしい。
父の名前は『上野十猪』。昭和十年、猪年に生まれたから、そう名付けられたの。」
「一度聞いたら、忘れられない名前ね。」
そこから、響香の父の話が自然とほどけていく。
中東出張。ボールペンをお土産にしたこと。
ホテルの枕元でスーツケースごと盗まれても、ひとことも弱音を吐かなかったこと。
暮らしのちがいを、ぽつりと話すくらいで……あとは黙っていたこと。
伸子はじっと耳を傾けていた。
会話は途切れても、ふたりの間には静かなあたたかさが流れている。
「中東って、ドバイとか?」
「ドバイって、最近まで“中東”って意識してなかったのよね。
どこの都市?って感じだった。今では有名だけど。」
響香は首をかしげ、テーブルの上にあったペンを手に取った。
「父がアルミサッシを売っていた場所とは、どうしても結びつかないのよ。
父ね、日本のありふれたボールペンを、たくさん持って行ったの。」
「ボールペン?」と伸子が聞き返す。
「そうそう。今では百均で五本セットになってるようなやつ。
でもね、日本のボールペンは性能がいいって、現地の人にすごく喜ばれたんだって。」
響香は、誇らしげな父の顔を思い浮かべながら、
“きゅんちゃん”のボールペンを両手で転がした。
北海道の観光大使だという、ちょっととぼけた顔のキャラクターのボールペン。
それは、ふたりのお揃いだった。
本当は、そのボールペンにまつわる話が伸子にもあった。
けれど響香は気づかず、父の話を続けていた。
「向こうの人はね、『神様がご飯を持ってきてくれる』と信じているんだ——。
そんな暮らしのちがいを、父が語っていたことだけ、記憶に残っているのよね。」
響香の胸には、幼き頃の台所の食卓の一コマが、ふっとよみがえった。
「企業戦士で、おおざっぱだけど、時間にはきっちりしていた父が、
たくさん待たされた後、身ぶり手ぶりで商談をしている姿を想像したわ。」
やがて伸子が、スマホの画面を見ながらつぶやく。
「……マグルーバ、っていう料理みたい。」
翻訳された文字を追いながら、ぽつり。
「やっぱり、私、作ってみるわ。」
まるで画面に語りかけるような声だった。
彼女の脳裏に浮かんだのは、まだ幼かった響香が、
異国から帰ってきた父にもらったレシピの紙に、
小さな手でひらがなを練習している、どこか愛おしい光景。
そのレシピの余白には、今もなお、たどたどしいひらがなが残っている。
文字はぎこちなく、ところどころ大きさもばらばらだが、そこには一生懸命さと純粋な思いが込められていた。
そしてその上部には、「1972・11・7」と、はっきりとした大人の字で日付が記されている。
まるで「この日を忘れないように」と願う、強い意志が刻まれているかのように。
――きっと、響香の父が書いたのだろう。
その一枚の紙から、若き父と幼い響香が囲んだ食卓の情景が、伸子の胸に温かく甦る。
香ばしい匂い、湯気の立つ台所、響香の笑い声、そして父のやさしいまなざし。
それは、ずっとその場にひたっていたくなるような、懐かしく、心を包みこむ映像だった。
謎だったメモの正体が明らかになり、胸の中にふっと明かりが灯ったような、すっきりとした気持ちが広がっていく。
明日、凛に再会する日。
この料理が、その再会にそっと彩りを添えてくれる。
──そんな予感が、伸子の心にやさしく満ちていった。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
また次話で、お会いできましたらうれしいです。
◇◆◇
次回予告:「第17話 レシピの余白に咲く文字」
◇◆◇
―― 朧月 澪




