第15話 メモリーの庭で 五年のトンネルを越えて
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第15話 メモリーの庭で 五年のトンネルを越えて
待ち合わせの本屋の前にあった「べらぼうベンチ」。二人で勝手にそう名付けたベンチは、2年間のときをこえ、再会を果たした。「5分だけ」と思っていたのに、座ると自然に時間がゆるやかに流れ、ふたりの距離も元に戻った。そして、伸子の車でメモリーの庭へ向かった。
メモリーの秋の庭は、今年も想像を超えて美しい。
ガレージには山葡萄の実が絡まり、紫と白のマーブル模様が、ひそやかに光をまとって揺れている。
もし、そのひと粒ひと粒を数えたなら、億の数にもなるだろう──まるで小さな宝石たち。
秋バラは、春の美しささえ凌ぐ勢いだ。
春の薔薇が季節の初めの息吹を吸い込んで生まれた命の証ならば、
秋の薔薇は、終わりゆく年のすべての命の息を吐き出し、その花に託しているように見える。
この空気。この匂い。
響香は、伸子とこの庭を歩く幸せを、一歩一歩、かみしめていた。
オーナーの手によって丁寧に敷かれたレンガの一つひとつを、見逃したくなかった。
──この庭をともに歩くのは、やはり伸子でなくてはならない。
見晴台にあるこの庭園は、春の雪解けとともに芽吹き、一日として休むことなく命のループを巡って、この季節へとたどりついた。
その時間のすべてに包まれるように咲く秋バラが、また心を奪ってゆく。
レンガの温もり、水の音。
キボウシの葉とともに、すべてが静かに心を満たす。
空気の香りが違う。
ワンシーズンで伸びた葡萄の蔓は、すでに硬そうな茶褐色に変わり、どこか愛おしい。
それを籠に編もうと考えた誰かの気持ちが、今ならよくわかる。
この秋も、インフルエンザの流行でマスクの着用が推奨されていたが、
今日はあえて、それを外して歩いた。
秋の空気を、秋の匂いを、まっすぐに感じたかった。
北海道にコロナが入ってきたのは、2020年の1月ごろ。
あれから、もうすぐ五年になる。
最初のころは何がなんだかわからず、マスクを奪い合う映像が流れ、
販売状況に振り回され、ドラッグストアに長い列ができた。
前回、二年前にメモリーを訪れたときは、すれ違う車の中でも皆がマスクをつけていた。
メモリーの階段前には閉店中の看板が立っていて、飲食はできなかった。
そのとき私は、昭和レトロの素敵な店内の話を、伸子に伝えた。
出口が見えていたとしても、あのころはまさにトンネルの中だった。
光が射していても、それが本当に外の光なのか、確信できなかった。
見えている出口さえ、幻のように思えた。
季節が巡り、庭の木々は葉を落とし、また芽吹きを繰り返した。
思えば、本当にながい、長いトンネルだった。
今では、戸棚の奥にしまわれた、全国民に配られた“アベノマスク”が、
まるで参加賞の記念品のようにそっと残されている。
裏扉の飾りになってしまった、過ぎた時間の証のように。
それでも、メモリーの秋の緑を、生涯一度と思えるほどに味わった。
けれど今日、響香ははっきりと感じていた。
あのときよりも、さらに美しい。
この秋は、あの記憶を超えている。
「コロナ禍が明けたら、ふたりで、その初日に上りたい」
――そう思った、おととしの秋。
去年の「開店中」の知らせは、誰にも伝えられず、
インスタの画面を、そっと閉じた。
そして今年。
もう無理だとあきらめかけた、あの夏を、
すっかり忘れてしまうほどの、今。
わたしたちは、看板の先の階段を、ゆっくり――あがる。
五年のトンネルを越えたその先で、初めて感じる光。
秋の、駆け込み乗車。
それは、時をとめた。
過去も未来も、その一瞬の輝きに閉じ込めたようだった。
2 トンネルの先
──トンネルを抜けた先に広がる景色といえば、
私はいまも、日豊本線を思い出す。
あれは、中学一年生の夏休みのことだった。
弟と二人きりで、博多から鹿児島へ向かう列車のなか。
引っ越して間もない太宰府の駅までの道のりを、ようやく覚えはじめたころだった。
列車は西へ、南へ、父の故郷へと揺れていく。
おばあちゃんの待つ、鹿児島の知覧までの旅。
長いトンネルをくぐるたび、次に見える景色を想像した。
山々の風景も、きっとはじめてだったはずなのに──
記憶に残っているのは景色の続きではなく、
トンネルの先の光が、すぐに闇に吸い込まれていく、その繰り返しだった。
ひんやりとした空気の匂い、列車の揺れ、トンネルの壁に反響する音。
すべてが光と闇の間に溶けていく。
ようやく着いた駅の風景。
「おおきゅうなっちょったね」
小さなおばあちゃんが笑った。
眼鏡の奥に揺れる、やさしい目。
あの目だけは、今も胸に残っている。
今、ふと見つめたこの景色も、
いつか、あのときのように思い返す気がした。
日豊本線の緑と、この北の秋の緑。
なんの関わりもない――それさえも、愛おしかった。
言葉にすることさえ、もったいなく思えて、黙って体中のまなざしで見つめた。
体ごと緑に溶けていくようだった。
北国の、この秋に揺れる緑。
大きなキボウシの葉に、色づいた小さな葉がひらりと舞い落ちる。
薄ピンクの薔薇のスパイシーな香りが、そっと鼻先をかすめ、
空の鳥たちのささやきさえも、遠い記憶の光へと溶けていく。
風に揺れる葉の一枚一枚が、トンネルの先の光を思い出させる。
五年という時のトンネルを抜け、記憶は今ここにある緑と溶け合っていく。
──あの光も闇も、今、ここに息づいている。
3 再会の席にて
メモリーの店内の席についても、心は静かに躍っていた。
再会のよろこびと庭の美しさ。
「私、伸子さんとここで食べたかったんだ」
響香がそう言うと、伸子は笑って返した。
「響香さん、これで三度目だよね。前の二回は、B型の人だったでしょ?」
「『いいよ、ゆっくり庭でも見てって』って言って、座って待ってる人と来たんだよね」
――2年前の私のボヤキ、よく覚えてるんだ。
(そう、二度ともB型の人と来たって、ぼやいたっけ)
(A型の私は、誘うのも断るのも苦手なのに……)
(『どこでもいいから』『庭でも見てて』って言われて、どうしてこっちが謝る展開になるのかしら)
……でも今は、そんな事を思い出す時間さえもったいない。
ただ、伸子とこの庭を楽しみたい。
正方形のお弁当箱には、秋の食材が競うように彩られている。
蒸したかぼちゃ、にんじんの和え物、揚げなす、紅色の大根の酢漬け。
幹事会とはいっても、二人きり。
知り合ったころの花人クラブの集まりを口実にして会っているけれど、
ほんとうは口実なんていらないふたりだった。
「この前、変なメモ送っちゃったでしょ。あれ、私、印刷したの」
響香はカバンからファイルを取り出しながら、早口で続けた。
「旅行の話聞いて、それから幹事会の仕事して、それで時間が余ったら見てくれる?」
普段はのんびり話す響香が、今日は早口で言葉を重ねる。
伸子は、その様子を微笑ましく見守った。
話したいことが山ほどあるとき、絶対に話したいことを“前ふり”にするのは、お互い様。
今日は、響香の話だけを聞けばいい。
――そう思った、その瞬間。
次の料理が運ばれてくる。
ふたりは思わず声をそろえて、
「わあ、美味しそう!」
窓に映る庭の美しさに心を奪われながら、伸子はふと遠くの空を見上げた。
胸の奥に、かすかな寂しさが広がる。
響香とやっと会えた喜びと、これまでの出来事が静かに交差していた。
「私も、実は気になってたの」
伸子はそっと言った。
「あれ、アラビア文字でしょ?」
響香は、少し気まずそうに笑い、
「虫の行列の絵かとおもったんだけど……これなの」
『伸子と響香の幹事』と手書きされた花柄のクリアファイルから、
コピーした紙を取り出して、左端にそっと置いた。
弟の昔の携帯に保存されていたメモの写真だった。
《きようか》《KYOKA》
何列も並ぶアラビア文字。その下には、筆記体で 《ueno jui》、さらに《1972・11・7》。
ひらがなとアルファベットは、たどたどしい子どもの文字だった。
見れば見るほど、気になるメモ。
話したいことは山ほどあるのに、どこからほどいていけばいいのか分からない。
話題は、いつものように一本の糸ではなく、いくつもの糸を紡ぐように広がっていく。
「今、翻訳してみる?」
響香は笑ってうなずいた。
スマホの小さな画面の中で、文字たちが光を放ちはじめる。
――旅の話は、まだ、はじまらない。
第15話 メモリーの庭で 〜五年のトンネルを越えて おしまい
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次話へつづく
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◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
また次話で、お会いできましたらうれしいです。
◇◆◇
次話予告 第16話 虫たちの行列の正体〜きょうか ㊙ 1972・11・7
◇◆◇
―― 朧月 澪




