第1話 台所とアンジェラ〜ただいまの薔薇(2024年秋)
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第1話 台所とアンジェラ〜ただいまの薔薇
トンネルを抜けると、雪国ではなかった。
朝の白さが、秋の青い空へとすっと溶けていった。
道は、限りなく高い空へとのびていた。
この二年で、町には信号機がずいぶん増えた。
赤信号で停まったとき、赤い自転車がすっと目の前を通りすぎた。
見覚えのあるその自転車は、次第に小さくなり、やがて角をまがって見えなくなった。
――北海道北広嶋市に住む伸子は、つい先日、長旅から帰ってきたばかりだ。
だがその疲れを見せることもなく、旅の話を誰に伝えることもなく、
いつもの日常へ戻っている。
カバンには、旅の報告書の提出先のメモが一枚だけ増えた。
北広嶋の某水道会社で事務室対応にあたり、
帰り道には作業服のままスーパーに寄り、
相棒の軽自動車を走らせて家に帰る。
作業服でなくてもいいのだが、
水道インフラの一端を担う伸子は、
「いつでも現場へ出られるように」と、日常のほとんどを作業服で過ごしている。
その作業服には折り目がきちんとつき、
胸には 「北広嶋市ニコニコ水道管理株式会社」 の文字。
腕には彼女のイニシャル 「NA」 が刺繍されていた。
◇
長旅前から四十年間続く、伸子の日課は、家に着くとまず台所に立つことだ。
サザンオールスターズの「いとしのエリー」を歌いながら、
エリーの部分を家族の名前に変えて楽しげに口ずさみつつ、
朝洗うことのできなかった食器を手際よく洗い、
こうして台所仕事をはじめる。
その姿には、伸子らしい明るさと温かさがにじみ出ている。
ふと窓の外を見ると、庭のバラ「アンジェラ」が風に揺れているのが目に入った。
ピンクの可憐な花たちが、順に咲いてきた時間を映すように濃淡を重ね、
まるで「おかえりなさい」と微笑んでいるようだった。
伸子はそっと庭に出て、
「ああ、元気に咲いてくれたんだわ」と、ゆっくりとアンジェラを見つめた。
旅のあいだ、ずっと気になっていたアンジェラ。
初心者でも育てやすいと聞いて購入したバラだったが、
ここ十数年、忙しい時間を縫って庭の手入れを続けてきた伸子にとって、
この花は特別な存在だった。
その姿は、ようやく戻った日常の光を柔らかく映していた。
やわらかな気持ちで台所に戻ると、
窓下の棚に、メモの挟まれた本があり、
自然と視線が吸い寄せられた。
買った覚えのない本だった。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
読んでくださって、ありがとうございます。
どこかで、それぞれの「台所」から、小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。
◇◇◇
お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
◆◇◆◇◆
→ 次話 第2話 アンジェラと? のメモ
◇◆◇◆
―― 朧月 澪




