*4 記憶が曖昧なのか、改ざんされているのか
午後の眩しい日差しが射し込む廊下を通り抜け、体育館の端にある体育教官室に向かう道すがら、何故だかその男子生徒が僕の方をちらちらと見てくるのだ。それも、何か含みのあるような笑みを浮かべながら、ニヤニヤと。
もしかして、僕が鶴賀に怒られることを知っていて、それを面白がっているのかな……なんだか嫌な奴だな……そんなことを考えている内に、僕らは体育教官室に辿り着いていた。
「失礼しまーす。せんせー、連れてきたよー」
「おお、鴨井。ありがとな」
「いえいえー。で、俺もいいんでしょ?」
「まあ、そう焦るな」
部屋に入るなり、鶴賀と、鴨井と呼ばれたその生徒は、何やらニヤニヤしながらこちらを見つつ小声で話している。呼び出されたのは僕なのに、僕に背を向けてこそこそと何かを打ち合わせているようだ。
なんか、イヤだな……そう、思っていると、鶴賀が僕を呼び、手招きをしてきた。招かれるまま、僕は歩み寄っていく。
「佐鳥、お前、最近体調はどうだ?」
「え? まあ、べつに、フツーです」
「フツー? それってどんな感じなんだ?」
「どんな感じって……別に、どこも悪くないし、元気ですけど」
鶴賀は、事務イスでじりじりと僕に近づいてきて、舐めるようにじっとりと僕を上から下まで見つめてくる。しかも、僕の背後には鴨井が立ちふさがっていて、なんだか後ろにもさがりにくい。まるで、逃げ場を塞がれているみたいだ。
「元気とは言うけど、佐鳥、昨日ホームルーム中にひっくり返ってただろう? あれは大丈夫なのか?」
「あれは、べつに……」
確かにウトの力で七年後の世界から時をさかのぼったって、その時に勢い余ってイスごと倒れてしまった。でも、それはもう昨日の話であって、今日の、それもさっきの話ではない。
なんでいまさらそんなことを訊いてくるんだろう? そう、不思議に思っていると、不意に鴨井が僕の両腕を背後からつかんできた。まるで抱き留めるようなそれに、僕は声をあげそうになって振り返る。
「え……な、なに?」
「せんせーはお前のこと心配なんだってさ。診てもらえよ。俺も手伝ってやるからさ」
「え? なに言って……先生? 何をして……」
鴨居に捕らえられて身じろぎしている間に、鶴賀が距離を詰めてくる。吐息さえ感じるほどの至近距離に迫っていた。
恐怖で声が出なくなるなんて思わなかった。ましてや僕はかわいい女子生徒でもなく、モブとも言える存在感のない生徒のはずなのに……なんで、この二人は僕を何かいやらしい眼で見つめてくるんだろう。まるで僕が可愛らしい格好をしているかのように、ニヤニヤと目許も口元もだらしなくとろかせて、よだれが滴りそうだ。不気味にすら感じる彼のねっとりとした眼差しに、僕は声が出なかった。怖い、食べられる、そう本能で感じた。
助けて! そう叫ぶことすらできないほどの恐怖を感じていたその時、体育教官室のドアが大きくノックされ、鶴賀と鴨井が顔を見合わせて動きを止める。
「誰だ!」
鶴賀があからさまに苛立った声でそうドアの方に怒鳴りつけると、「サッカー部の鳩羽でーす。倉庫の鍵届けに来ましたぁ」と、明るい声が返ってくる。その声に、僕がハッと顔をあげると同時にドアが開き、鶴賀と鴨井が慌てて僕から手を放していく。
「何の用だ、鳩羽」
「グランドの倉庫の鍵、返しに来たんすよ」
「じゃあそこら辺に置いとけ。そんでとっとと帰れ。お前、三年にもなって部活なんて呑気なもんだな」
「サッカー推薦もらえそうなんで、練習っすよ」
「っは。だから余裕を見せつけてるわけか?」
あからさまに不機嫌になっていく鶴賀の様子に、鴨井が気まずそうに顔を背けて入るが、明らかに動揺している。そんな鴨井の様子に、鶴賀の不機嫌さが一層増していくのが手に取るようにわかる。
そんなふたりの様子を知ってか知らずか、永和は言われたとおりに鶴賀の机の上に鍵の束を置き、ちらりと僕の方を向いた。
「あれ? 佐鳥、何かやらかしたの?」
「や、そういう、わけでは……」
まさか僕に話しかけてくるなんて思わなかったから、どきまぎしながら答えると、永和はふわりと懐っこそうに笑い、「そっか、じゃあ帰ろうぜ」と言ってきたのだ。
それに異を唱えるように目を向けてきたのは鶴賀と鴨井だ。まるで永和が彼らに謀反でもしたかのような驚きように、僕の方が呆気に取られてしまう。なんでこの二人はこんなに僕に執着しているんだろう? と。
「んじゃ、さよーなら、先生」
そう言って、永和は僕の手をごく自然に繋ぐように促し、鶴賀達から引き離しつつ体育教官室から解放してくれた。鶴賀も鴨井も、バカみたいに口を半開きにしたまま僕らを見送っていた。
体育館を出てからも、永和は僕の手を掴んだまま廊下を歩いて行く。鶴賀も鴨井も追ってくる気配はないのに、まるで彼らから僕を出来るだけ遠ざけるかのように。
その間ずっと、永遠は僕の手を握ったままで、そこから僕の鼓動が伝わってしまいそうで余計にドキドキする。
「は、鳩羽君……あの、もう、手、放してくれる?」
下駄箱のある玄関口までたどり着いた時、ようやくの思いで僕が告げると、永和はようやく手を放してくれた。つかまれていた所はじんわりと熱く、ほのかに永和の気配を感じる。
立ち止まって背を向けたままの永和は、僕から手を放すと、ちらりとこちらを見てくる。その表情は、先ほど体育教官室で見せていたような懐っこさがなく、むしろ冷たくさえ見える目をしている。
どういうつもりで永和は僕に声をかけ、あの何とも言えない妙な場から連れ出してくれたんだろう。偶然にしても、あまりにタイミングが良くて、僕はあの場に現れた理由を訊ねるかどうか迷った。
「あのさ、佐鳥って、結構鈍い?」
「へ? 鈍い?」
突然の質問に、僕は戸惑う。いきなり運動神経の話だろうか? 確かに運動は得意ではないけれど、だからと言って先程のように体育教官室に呼び出される程ではないと思っている。それに、さっきはなんだかそういう話でもなさそうだったんだけれど……そう、考えていると、永和は大きく溜め息をつき、呆れたように僕を見てくる。
「あのさ、大きなお世話かもって思うけど……一応言っておくよ。佐鳥、あいつらに気を付けた方がいいよ」
「気を付ける? 僕が? 鶴賀先生たちを? なんで?」
突然の警告にますます戸惑っていると、永和はもう一度溜め息をつき、頭を掻きながら言い難そうに口を開く。
「なんて言うかさー……そういうとこなんだよなぁ……」
それがまたいいんだけどさ、と小さな声で呟くのが聞こえたけれど、何を言っているのかが意味が分からない。そもそも、こんな出来事って七年前に起きていたんだろうか? 自分の記憶が思っていたよりも曖昧でいい加減で、余計に戸惑ってしまう。
「……なんか、ごめん」
何か不快にさせてしまった気がして、思わず謝ると、永和は一層困ったように頭を掻いている。
まさか、こんな形で永和と関わってしまうなんて思ってもいなかったから、嬉しさがないと言えば嘘になる。だって、関わることをやめようと思っていても、彼を好きであることに変わりはないから。
でも、それを顔に出してしまったら、きっと永和は困惑するだろうし……迷惑になるだけだ。未来を変えるために、彼と関わらないようにはしたいけれど、だからと言って、嫌われたくはない。すごく勝手な言い分だけれど、好かれないならせめて印象は少しでも良くしておきたいからだ。
だから、つい反射的に下手くそな愛想笑いを浮かべたら、永和は頭を掻いていた手を停めて下ろし、僕の方を真っすぐに見つめてくる。その目は、いつもの線になる糸目ではなく、はっきりと見開かれていた。
「佐鳥は、何も悪くない。悪いのは、あいつらだ」
はっきりと言われた言葉に驚きで何も返せないでいたら、永和はいつものように懐っこく笑い、そして背を向けて駆けて行った。
駆けて行くサッカーユニフォーム姿の背を見送りながら、奥底にあった記憶が脳裏に蘇るのを感じる。
――ああ、そうだ……そう言えば、なんでだか、僕、一度体育教官室に呼び出されたことがあったんだ。今日みたいに、理由もわからず……でもあれは、鶴賀と二人きりで、鴨井はいなかった気がするし、あんな抱き着かれるみたいなこともなかったような……
でも、確かに当時もさっきも、僕は、あのタイミングで現れた永和がヒーローのようにカッコよく見えたし、連れ出してもらえて心底ほっとしたんだった。
「……なんで、忘れていたんだろう……きっと、いまので僕は、永和のことが好きになったんだ……」
それまで誰かを好きだなんて意識したことが僕はなかった。女の子でも同じ男でも、誰に対してもそういう感情をいだいたことはなかった。だから僕は、きっとモブのまま恋愛なんて無縁で生きていくんだろうと思っていたんだ。
それなのに――この日、僕はあきらかに永和に恋をして、それに落ちたんだ。だからいま、胸の奥が騒がしいほど鼓動していて、熱いのだろう。
「ってことは……このままだと、未来は変わらないままなのかな?」
それでは何のために時をさかのぼって来たのだろう。人生をやり直す意味がないではないか。僕はひとり廊下で頭を抱える。
どうしよう、これ以上永和と関わらないようにしなくては。そのためにはどうしたらいいんだろう。
「学校に来ない、というわけにはいかないよな……人生やり直しで高卒のニートになるわけにはいかないし……」
学校を出て、歩いて学校最寄り駅まで向かいながら今後の身の振り方を考える。しかし頭の中まで七年前仕様に戻ってしまっているのか、大していい案が思い浮かばない。このままでは精神面だけ二十五歳の若干老けた男子高校生になってしまっただけだ。
「困ったな……学校に行く限り永和とは顔を合わせることになるんじゃ? いや、きっと明日には今日のことなんて忘れてるかな……そうだといいな……」
スクールカーストの上位である永和なら、モブの僕と関わった先程の三十分もない出来事なんてきっともう忘れているだろう。永和は親切で面倒見がいいやつだったから、きっと数多ある親切エピソードに埋もれてしまうに違いないから。体育教官室にあのタイミングで現れたのも、きっと何かの偶然だろう。
「……そう、だよね、きっと……」
誰に言うでもなく、ひとり暮れていく道に佇んで呟いた声に答えてくれるものはいないけれど、肯定されたということにして、僕は家路を急いだ。