*3 さかのぼって、また巡り会う
「……ということなのでぇ、くれぐれも明日は遅刻をしないよう……佐鳥!」
「んぇ? わ、あぁ!」
不意に名前を呼ばれ、飛び上がらんばかりに身を起こしたらバランスを崩してひっくり返っていた。見上げるのは薄汚れた白い天井、それから……
「……鶴賀、先生?」
僕を見下ろしてくる、日によく焼けた筋肉質な体型の、同じ二十五歳くらいの短髪の男性の名前を呟くと、彼は呆れたように僕のおでこの辺りをはたいた。
「ぼーっとしてないでさっさと起き上がれ。もう夏休みは終わったんだからな。受験生としての自覚が足らんぞ。ほら」
そう言って、鶴賀は僕に手を差し出して引き起こそうとしてくれる。何故かその手を鶴賀は包み込むように握りしめてきた。
鶴賀って、僕に対してこんなことする先生だったっけ? なんか、やたら厳しい先生だった気がするんだけど……とは思いつつも、気のせいかと思い、その手を持たれたままにする。
促されるまま体を引き起こされ、椅子に座り直している僕を、周りの生徒たちがくすくすと笑ってみている。失礼な奴らだな……と、思いながら、座り直した机に広げられていたプリントの日付を見て驚いた。
「二〇一×年、九月、一日……?」
僕がいたはずなのは二〇二×年の冬で、高倉の街にいたことは確かだけれど、それは帰省していたからで、こんな教室ではなく、高倉神社の前にいたはずだ。
そして僕は、そこでカラスの神様を助けようとして、車に轢かれて――
「いいかー、明日の実力考査は成績にこそ加味されないが、現段階の実力を知るいい機会だ。気を抜かないように。居眠りして余裕こいてる暇なんてないんだからなぁ」
僕が現状を把握しようと考えこんでいると、鶴賀は先程の失態を指して笑いを誘おうとしている。でもクラスのほとんどが笑っていない。もうきっと、誰がさっきこけたかなんて忘れているのだろう。
(そうだ、思い出した……僕は、クラスでは空気みたいにいるかいないかの存在だったんだ)
そういうのを、所謂モブキャラとでも言うのだろう。高校時代の僕は、まさにそれで、たとえ何か目立つような事態になっても、すぐに忘れられてしまうような存在だった。だから一瞬は恥ずかしくても、延々とそれが続かないのが幸いだった。
「……なんだ、やっぱりそのままなんだな」
七年後の二十五歳になっても、僕は僕のままで、モブのまま、うっかり死んでしまったのだ。いくら神社を掃除していていい心がけをしていたとは言われても、モブはモブなんだ。
だけど、あの奇妙な体験から、つまらないままで終わったはずの人生が帳消しになろうとしている。そう、僕はまた十八歳の日々を送ることになったのだ。
鶴賀の話が明日のテストの話から、明後日以降の授業時間に関するものに代わっていく中、僕はこっそり教室内を見渡す。彼を、探すために。
辺りを見渡していると、後ろから二列目の真ん中の席に座る僕から見て、斜め左前の辺りからちらりとこちらを窺う視線を感じた気がした。
視線に誘われるように目を向けると、その視線はふいっと感じなくなる。誰だろう、と一瞬考えたが、その正体はすぐにわかった。
明るい茶色の髪に、薄いけれど割とがっしりしていて、半袖のポロシャツから延びた腕は十代の若者らしい、細いながらもたくましさを感じる。指先でもてあそぶ見覚えのあるシャープペンシルのデザインに、僕はぎゅっと胸が締め付けられた。
(ああ、永和だ……生きている……)
斜め後ろからではっきりと顔を見られたわけではないけれど、僕が特に好きだった腕のラインと、背中、そしてエアコンの風に微かに揺れる、明るい茶髪とその狭間から覗く細いあごの輪郭に、僕は彼が永和である確信を持つ。
懐かしい、という想いが先立ち、続けて、また会えたと喜び、そしてずっと目を背けてきた初恋の傷みを一気に思い出してしまい、一層胸が痛んで苦しくなる。
(永和……永和が、いる……僕の目の前に……)
こんなに苦しくなるくらいに好きであるはずなのに、どうして彼を好きでいたことを無視し続けていたんだろう。ただ一目見ただけで泣きそうになるほど嬉しくて仕方ないのに。
永和は隣の席の生徒とこそこそと話しつつ、鶴賀の話を聞き、こちらの視線に気づくことはない。時折覗く横顔は、記憶の中と寸分もたがわない彼のものだ。
戻って来たんだ、本当に……あの不思議なウトという鳥が言っていたことは、間違いでも夢でもなかったんだ。だから僕は、またこうして高校生をやり直そうとしている。すべては、永和との関わりを断ち、彼との記憶をないものにして、失って悲しむ未来を変えるために。
(この気持ちも、あんな風に悲しくならないために、全部なかったことにする……そのために、人生やりなおすんだよな……)
そのために七年前に戻ったはずなのに……どうしてだろう、生きて笑っている永和の姿を目にしてしまったら、急に彼と関わらないでいようとすることにためらうような、迷う気持ちが湧いてくる。
(なにも迷うことはない。このまま、永和とは関わらないで、高校を卒業してしまえばそれでいいんだから)
そうすればきっと、僕の中の永和への想いだって消えるはず。きっとそれは不可能じゃない。
だけどどうして、永和を見ていると何かためらうような気持ちになってしまうんだろう。確かに僕は彼が当時好きではあったけれど、それはもう叶わないことはわかりきっている。彼はクラスの中心人物で、僕はモブ。つり合わないし、そもそも男同士だ。
それなのに、その想いを捨てようと考えることに、ためらいが付きまとうのはどうしてなんだろう。いまだって、永和は僕がいることすら気付いていない感じで、関わり合いがなさそうなのに。
ウトに時をさかのぼってやり直すことを願い出た時にいだいていた気持ちと、さかのぼったのちに目の当たりにした現実である光景に対していだいている気持ちに、わずかに差がある気がするのはどうしてだろう。なんだか誰かに嘘をついているような後ろめたさにも似ている。
「……なんだろう、この違和感」
その呟きはとても小さく、教壇で話す鶴賀の大きな声にすぐにかき消されてしまった。
そうして翌日はテストで、大人になっているから簡単かと思えばそうでもなく、むしろ記憶が薄れていてなかなか難問だった。
どうにかテストをこなし、放課後を迎えたけれど、誰ひとりとして僕に声をかけてこない。クラスの中でも目立たない存在だった僕は、時をさかのぼってもそれは変わらず、ひとりぽつんと廊下を歩く。
三階にある教室から階段を降り、窓の向こうに見えるグランドで行われているサッカー部の練習を眺める。永和は確か、サッカー部だったんじゃなかっただろうか。
ボールを追う部員たちの中に、ユニフォーム姿の永和を見つけた。ひょろりと高い上背と明るい髪色が目印になっているだけでなく、他の部員たちと動きが格段に違っていたからだ。
「はー……相変わらずカッコいいよなぁ」
焼けた首筋をしたたっていく汗さえも見えてしまうほど、僕は永和を無意識に凝視しているのがわかる。それだけ、当時の僕は彼が特別に見えていたのだ。
(確かに永和はカッコいいやつなんだけれど……どうしてここまで好きになったんだっけ?)
女の子に兎に角モテていたのは憶えているし、男子からだって信頼と人望があった。でもそれだけで惹かれるほど、当時の僕が単純な子どもだったわけではない。
(なんだっけ……なんか、あったんだよな……永和を、意識し始めたことって、たぶん)
ホイッスルが鳴り、試合が終わったようだ。走り回っていた部員たちが立ち止まり、汗をぬぐいながらコーチらしき人の話に耳を傾けている。永和はその中でもひときわ真剣な顔をしている。
チャラけているような見た目なのに、永和は結構真面目だということを、僕はふと思い出す。だからこそ、彼はエースストライカーになれたりもしたんだよな、と。
日によく焼けていて、細いのに筋肉質だったのはそのせいだったんだっけな……そんなことを思い出しながら外を眺めていると、ポン、と親し気に誰かが僕の肩を叩いた。
驚いて振り返ると、一六〇センチしかない僕より軽く二十センチは高い男子生徒が、親しげに笑いかけてくる。
当時の僕に、こんな風に親し気にしてくる友達みたいな存在はいなかったはずだけど……そう、思いながらひとまず愛想笑いを返すと、彼はにこやかに訊ねてきた。
「佐鳥、いま帰り?」
「あ、う、うん……」
誰だったっけ……たぶん、同じクラスだったとは思うのだけれど……そう記憶を思い起こしていると、彼は何故か僕の肩を抱くように組んできて、かなりの至近距離に顔を近づけてきて笑いかけてくる。
こんなに距離感近い友達なんて、この頃にいたっけ……? ふと、昨日鶴賀に手を触れられた時に覚えた違和感に似たものを察し、僕は思わず身を捩る。肩の腕はほどかれたけれど、距離は近いままだ。
「何か、用?」
「んー、なんかさ、鶴賀先生が佐鳥のこと呼んで来いって言うから」
「鶴賀先生が?」
「そ。体育教官室まで来いってさ」
今日はテストだけで、鶴賀の担当教科である体育は行われなかったはずだ。それなのに、僕をあえて呼び出すと言うのはどういうことだろうか?
(まあ、高三の夏だし、進路についてとかで担任から何かしら話がある、というのはあるあるなのかな……)
多少疑問に思いつつも、僕はその男子生徒と連れ立って体育教官室へ向かうことにした。