*2 すべてを変えるために時をさかのぼりたい
バスは地元である高倉駅バスターミナルに、夜明け前の四時過ぎに到着した。
夜明けであることを抜きにしても、バスターミナルは活況が普段からあるようには見えず、じわじわと寂れて行っているのがわかる。
ひと気のないコンコースに、僕は喪服の入ったスーツカバーととりあえずの着替えを詰めたショルダーバッグを手に佇み、さてどうしたものかと溜め息をつく。
「タクシー……は、いないか……歩くかな……」
路線バスは当然まだ始発前で、タクシー乗り場にも車はいない。葬儀会場は駅から少し歩くけれど行けなくはない距離なので、歩いて向かうことにした。
途中、コンビニに寄って香典の袋を買って香典を用意したり、コーヒーを飲んだりして明けてくる街並みを眺めていた。
外観は変わっていたけれど、そのコンビニが高校時代よく利用していたことを、店を出てから思い出しはしたものの、特にそれで感傷的になることはなく、淡々と歩き続ける。
(地元に帰ってきたり、馴染みの場所に寄ったりしたら何か思う所があるかなと思ったけれど……なんか、妙にスカスカするばかりで、涙も出ないな……)
漫画のように、好きな人の訃報を聞いてさめざめと泣く、みたいな気分は、そう何度も起きないのかもしれない。そうするにもパワーがいるからで、社畜同然のいまの僕にそんな余力はないのだろう。
「僕って案外、薄情者なのかな……好きだった永和が亡くなったっていうのに、家で知らせを聞いた時以来、何も感じないんだもの」
十八歳だった僕がいまの僕を見たら、なんて言うだろうか。人でなし、とか、血も涙もない、とかだろうか。
家で訃報を受けた時は反射的に涙が出たけれど、少し時間が経ったら感情がわからなくなってしまっている。泣きたいのか嘆きたいのか、悔やみたいのか。
「そういうの、永和の顔を見られたら、何かわかったりしそうだな」
そう呟きながら、地元ではそこそこ名の知られた高倉神社の前を通りかかる。ここは珍しくカラスが神社に関係しているとかで、そのせいか神社の周りにはハトではなくカラスが多い。
僕は地元にいた頃、毎週末親に連れられてこの神社の清掃ボランティアをしていたことがある。小さいころほどよく褒められるのが嬉しくて、本殿の周りをよく掃除して回っていたものだった。
懐かしと思いつつも、夜明け頃の薄暗い中にカラスのシルエットがいくつも見え、僕は思わず立ち止まりそうになる。そうだった、ここってこういう時間帯に来ると結構不気味だったよな、と。日中は人通りもあるし、明るいのでそうでもないんだけれど、日が暮れてからはぱったりとひと気がなくなる。
いまの時間は怖いから、早く歩き去ってしまおう……そう思いながら歩みを早めようとした時、どこからかか細く何かが鳴いている声がした。
「何だろう、子猫?」
立ち止まって辺りを見渡すけれど、街灯もないうす暗い神社の前にひと気も動物の気配もない。しかし声はする。しかも僕はいまから葬儀に顔を出さなくてはいけない。
急に揃ってしまったホラーな要素に、僕はいよいよ歩みを早めようとしたのだけれど、そうするより先に視界の端に小さな影がうごめいているのが見えた。
轢かれた子猫だったらいやだな……と、思いながら近づいてそっと覗き込むと、小さな黒い鳥……子ガラスのような鳥が、道の真ん中でバタバタと羽を震わせていた。
「わ、枝から落ちちゃったのかな……こういうときってどうしたらいいんだろう」
神社の神主さんに知らせて預かってもらうのがいいのだろうか。でもいまは明け方だから誰かいるかわからないな……そんなことを考えながら、ひとまず僕は荷物を道路の脇に置き、カラスの方へ歩み寄る。幸い、カラスは大きなケガをしているわけではないようで、ヒナ、というほど小さくもないようだ。
「ここだと轢かれるから、道の端に……」
そう呟きながらカラスを着ていたジャケットで包むようにして抱え上げようとした時、ぱぁっと明るく何かに照らされた。
スポットライトが当たるかのように光に包まれた、と思った次の瞬間、僕の体に真横から強い衝撃が突っ込んできて、体が吹き飛ばされていく。
――何が、起こったんだろう?
アスファルトの上をすべるように吹き飛ばされていきながら、僕は衝撃を受けた原因を探ろうとした。でも、何が自分の身に起こったかわかるよりも先に、吹っ飛んだ体は硬い地面に落ち、転がっていく。その途端、痛くて熱い衝撃が湧いてきて、僕はもうそれ以外考えられなくなった。
痛い、熱い、苦しい……見開いた眼には何も映し出されず、視界は真っ赤に染まっていく。
――一体、いま、何が起こったの? 僕は、どうなったの?
助けて、と、叫べたかどうかわからない。ひと気のない神社の前で、僕はひとり薄れていく意識の中、とりあえずあのカラスだけでも助けないと……とだけ考えていた。
そうして僕は、明け方にひとり、カラスを助けようとして車に轢かれてしまったのだ。
ぼんやりとした意識が再びしっかりと覚醒したはずなのに、目に映し出されているのは暗い闇だった。
ここはどこだろうと辺りを見渡してもどこまでも暗く、しかも自分の指先すら見えない。それどころか、その指先があるのかどうかさえわからない。
「あれ……僕、どうしたんだっけ……確か、カラスを……」
カラスを抱え上げたら、急に真横から何かが……そう記憶を手繰っていると、『おお、目覚めたか』と、小さな子どものような声なのに、妙にかしこまった言葉が聞こえてきた。
ぎょっとしてまた辺りを見渡していると、先ほど見た時は何もない暗闇だった足許(と思われる)辺りに、ぼやっと光の淡い塊が浮かんでいたのだ。
人魂だろうか? と、目を凝らしてみてみると、それはふわりと僕の目線の高さまで浮かび上がり、だんだんと鳥のような形になっていった。
「さっきの、カラス?」
カラスが喋っている不可思議な現象だけれど、僕の実態がわからない現状もあるせいか、取り乱すほどの驚きはない。ただ一つ不思議なのは、カラスのはずなのに白く光っていることだ。
『儂は高倉神社の神鳥、ウトと申す。先程はそなたのお陰で命拾いをした、感謝する』
「あの、じゃあ、僕ってあなたを助けて、それで……」
『そうじゃな、そなたは元々この場所で命を落とす宿命であった。そこに、たまたま儂が居合わせた』
「ええ?! 僕、死んじゃったんですか?!」
好きだった人の葬儀に出ようと帰省したら、その先で事故に巻き込まれて自分まで死んでしまうなんて。不運にもほどがあるが、起こってしまった事態は覆らないんだろうか。
想いを告げないままの胸のわだかまりを解消するどころか、お別れすら言えなかったなんて……悔やまれることばかりが重なって、思わずしゃがみ込みたくなっていると、ウトは更にこう言ってきた。
『確かに、いまのそなたは亡くなった状態ではあるが、生き返ることは可能である』
「そうなんですか?!」
僕なんてモブを地で行くようなやつなのに、何か取り柄なんてあっただろうか。それも、神様のお眼鏡に敵うようなものが。
ウトは、カラスなのに明らかにゆったりと微笑みつつうなずいて、僕の胸中を見透かすように答えた。
『そなたは幼き頃から儂の住まいをよう清めてくれたからな。近頃の若者は参拝にすら来ぬのに。その良き心がけに免じて、願いを一つ叶えてやろう』
「願い事? それって、なんでもいいの?」
何でも一つだけ願いを叶えて蘇れる。ウトの言葉に、僕は頭を悩ませる。いますぐにでも叶えて欲しい願い事なんて、モブの人生を生きて来た僕にあるわけが――
「……あります。一つ、叶えて欲しい事」
僕の言葉にウトは大きくうなずき、『ならば叶えてやろう。申してみよ』と、羽ばたきながら促してくる。
ひとつ息を吐き、僕はその願いを口にした。
「好きだった人……永和との僕の未来を変えたいんです。永和との関わりをすべて捨てて、彼を亡くす悲しみを知らない未来にしたいんです」
『永和、とは身まかったかつての友、ということでよろしいか?』
ウトの確認に僕がうなずくと、ウトはふむ、と言いながら考え込み、それからもう一度訊ねてきた。
『その永和との未来を変えたい、のであれば、永和と出会った頃にまで遡って人生をやり直す、ということになるが、よいのか?』
「はい、構いません」
『だが、儂の力ではせいぜいさかのぼれて6~7年が限度だ。そなたがその者と出会ってしまうことは避けられぬぞ?』
「いいんです! このままでは死に切れません! お願いします!!」
半ば食い気味に答える僕に、ウトは少し考えつつ、『……まあ、よかろう』と呟いた。
もう二度と会えることがない彼だから、たとえ6~7年でもさかのぼり、彼と関わったすべてに反する行動をとってしまえば、きっとあんなに悲しくなんてならないだろう。
(そしたらきっと、永和を失う悲しみも、苦しみも味わうことないはず――)
僕がそう思いながら決意を硬くしているのを、白く輝くウトはまるで翼で腕組みするかのように考えこみ、やがて確かめるようにこうも告げてくる。
『儂が願いを聞き入れたら、よほどのことがない限り覆すことや取り消すことは出来ぬ。それでも、翠の意思は変わらないということでよろしいかな?』
「はい、変わりません」
『……あい、わかった。じゃあ、いまから七年前の九月、十八歳の夏休み明けの教室に翠を送り届けようぞ』
目を閉じ、十数えよ、と言われ、僕はそっと目を瞑る。なにも見えなくなった僕の前あたりに何かがかざされる気配がして、それからゆっくりカウントが始まる。
ひとつ……ふたつ……カウントに合わせて呼吸を深くしていく内に、段々と自分の体の輪郭が曖昧になっていく感触がした。それまで僕の周りを取巻いていた、闇色の空間ににじんで溶けていくように、自分がとろけていく。
十まで数え終えた瞬間、パン! と大きな他を叩く音がして、僕は思わず目を開ける。だけどそこは何もない空間。
そして次の瞬間には、何かが強く僕を後ろへと引っ張っていくのを感じた。首根っこを掴まれて乱暴に後ろへ、滑るように引っ張られていく。
何が起こっているんだろう? 確認しようにも首が動かず、背後を窺うこともできない。
びゅうびゅうと耳の横をすごい勢いで風が吹き荒れ始め、空気が流れていくのを感じる。
どこまで行くんだろう? 本当に七年前に行けるんだろうか?
疑問と不安ばかりが次々と湧いて出てくるなか、僕はどんどん果てしなく後ろへと引っ張られていき、やがて、僕の意識すらも呑み込まれていった。
こうして僕は、二十五歳の秋の夜から、十八歳、高校三年生の夏の終わりへと時をさかのぼることとなった。
すべては、僕と、僕が好きだった彼の未来を変え、失う悲しみを味わうことがないようにするために。